木村達雄先生からの質問状


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合気錬体会       
初代総師範 吉丸慶雪

【木村達雄先生質問状−総括】

★佐川道場を辞去後、佐川先生より頂いた書簡









 最後に木村達雄先生の質問状を総括をしておきます。
 木村達雄先生の質問状の(1)−(13)は(6)(8)を除き、単なる佐川幸義先生の一方的な話に過ぎないと公言しておきます。
 だれでも隠しておきたいことがあります。佐川先生としては、弟子の前で吉丸のことを話題にしたくなかったと思います。弟子は側隠の情をもって吉丸の話題に触れないようにすべきでした。

 私は先生を庇うために沈黙を続けたのです。


 さて私は先生の慰留に応せず道場を辞去いたしましたが、結局心の繋りは互いに断つことはできず、その後は試行錯誤しながらも先生の教えに従って合気の理論を研究解明したのです。

 辞去したとき佐川幸義先生に頂いた書簡は次のとおりです。
「貴殿との繋りは今更言う迄もありませんがこの十六年稽古を精進迂生の手足となりよく努めててくれました。」
 先生と私との「繋がりは今更言うまでもありません」ということは、内弟子ないし親子同然の関係であったということです。

 「この十六年間稽古を精進」
 については、昭和36年11月1日入門いらい13ヶ年2ヶ月は欠席はせず、1日おきに先生と私との稽古生活を過ごしたことです。 

 「迂生の手足になりよく努めてくれました。」
 については実質的に師範代の立場にあり、後進の指導は私の仕事であったということです。

「又亡妻病臥中の配慮其他道場の発展を考え行動し(略)後面倒を掛けました。深謝します。」
 については、奥様のことはただ当たり前のことをしただけですが、のちのちの道場の発展を考えて佐門会を創ったりもしました。道場の発展と先生の名声が高まることが私の願いでした。

 従って私は、佐川幸義先生が75才まで研究した正伝大東流の正しい技法を伝承する責任があると考えて、数人の伝承者を養成しています。ただし一元・二元を除き公開は考えていません。  

 佐川幸義宗範の合気武術界への功績は二つあると私は考えています。
 まず宗範は昭和30年時点において「合気之錬体になれば動くだけで合気になる」と喝破していることです。その佐川先生の功績を理論化するために吉丸の使命がありました。その結果佐川宗範の教えに則り「合気之錬体になれば動くだけで合気になる」という「技術と理論」を私は確立できました。その結果、誰にでも合気を体得させることが可能になりました。

 次に先生は稀代の名人技を実現し、晩年においても合気の絶技を発揮されたことに功績があります。ただその先生の功績は、後世に再現されることが必要です。それが木村達雄先生の使命だと考えます。近い将来、佐川先生最晩年の合気をとられた木村達雄先生により佐川先生の名人技が後世に示されることを期待しています。

 最後に佐川幸義先生の「謎」について
 木村達雄先生からの質問状について1年の間じっくり考えていましたら、先生について当時の私が気がつかなかったことが分ってしまいした。当時警察などの講習会において圧倒的に強い武術者として恐れられていた佐川先生が、戦後、日比谷公会堂において演武会を開催(『合気之術』真実社刊)して昭和30年には道場を造り、さらに案内書まで作りながら、その後なぜ普及を断念し一介の町道場の道場主に甘んじていたのか。また『透明な力』には日比谷公会堂の演武会のことに触れていないのはなぜか。

 私は昭和37年当時、先生は「終戦のとき中学生であった長男が亡くなった」と言っていたのに(私も終戦のとき中学生3年)、『合気修得への道』P.106には「長男を20歳台で腸チフスでなくなれて以来、がっかりされて」となっている。これらは謎でした。

 しかしその謎が解けると(全ての謎が解けたのは平成18年6月の情報による)大東合気武術協会の問題もその一環であり、完全に私の責任ではないことが分ったので、ご子息佐川敬行様および木村達雄先生当てに書簡でお知らせしたわけです。

 さらにその謎の一環として先生が「真の合気」つまり「合気を掛ける」のではなく「力抜きの合気」を遣っていたのは吉丸および木村達雄先生だけであったことです。なぜなら「力抜き」を何回も何回も遣っていると、感覚が分る恐れがあるからです。だから先生はこの「真の合気」を掛ける人には、ある条件が必要でした。それで『透明な力』の「修業論」を読むと木村達雄先生もその条件に該当していたのです。
 だから木村達雄先生が佐川先生最晩年の「真の合気」を体得したことを信じることができます。

 最後に、吉丸に対して木村達雄先生が質問状を出したのは佐川先生と木村先生と吉丸との三人の深い因縁であり、今では木村達雄先生から質問状を頂いたことに感謝しています。


【師事】
泉川寛喜先生 比嘉派剛柔流空手道 1951年入門 四段 泉武館総本部師範代
 上京して、「内家拳を含む比嘉派剛柔流」を正確に伝承していた泉川先生に師事できたのは、一番の幸運でした。そのため佐川幸義先生の教えに直ぐに同調することができました。泉川寛喜先生に報恩するために泉武会第三代泉川勝也先生に「体之合気」の一部を伝授しました。 

佐川幸義宗範 正伝大東流合気武術 1961年入門 八元直伝 奥伝四段
 國分寺に就職し、近所の空手道場に訪れて小枝指謙先生と知り合い、小枝指先生の話で柔術の先生が居るというので見学に行ったのが佐川幸義先生でした。いらい佐川道場に籠もり武術界との交際を断ち、佐川先生により純粋培養された14年間でした。
 昭和51年に問題が起こり私は道場を辞去しましたが、昭和53年からは独りで佐川幸義先生の教えを研究し、以来「合気の理論」を試行錯誤しながら一応の結論を得ることができました。これには20年の月日が掛かりました。

佐藤金兵衛先生 山本伝大東流合気柔術 1993入門  個人教授約120回   大東流合気柔術秘伝奥義之事 免許
 佐藤金兵衛先生とは1990年ころ太極拳の演武会の打ち合わせの会合で知り合いましたが、大東流のことは黙っていました。ところが佐藤先生から書著を寄贈されたので読んでみると「山本角義先生に大東流の力抜きの法ほか秘伝の数々を伝授され免状も頂いた」とあったので、書簡して面会を求めました。これは昭和49年1月、佐川先生から「山本角義は昭和17年頃の弟子で、先生が中風で倒れた後、お世話を親身にみて大変かわいがられていたから、山本だけには色々と崩すポイントなど教えた可能性がある。」と聞いていたからです。佐藤先生に面会して合気の伝承について尋ねると、「山本先生は武田先生に合気を口伝されたそうです」と言われて私の掴んだ手を上げてみせられたのですが、それはまさしく私の知っている感触であったのです。それで「いま『発勁の科学』を書いているので、それが終わったら山本派を教えて下さい」ということで入門しました。というのは先に聞いてしまうと本には書けないからでした。週に2日、約3年間個人教授して頂き、さらに植芝盛平先生直伝の技も伝授されました。 そして「大東流合気柔術秘伝奥義之事 」の免状を頂きました。

【合気解明のためお世話になった方々】
堀辺正史先生 
 堀辺先生には私が紹介して佐川先生の三元直伝まで受けてもらいました。(佐川幸義先生免許 正伝大東流合気武術 中伝三段)
 堀辺先生の思考法は天才的であり、私は堀辺先生に科学的な思考法を学ぶことができました。私は堀辺先生を科学的な思考法の師匠と思っています。それ無くては佐川幸義先生の技を解明することは不可能でした。もし堀辺先生に縁が無かったら、実力もなく佐川道場40年を鼻にかけて一生を過ごしたことになったと思います。
 また堀辺先生は昭和51年ころには既に国士でした。堀辺先生に連れられて明治神宮賛奉会に参加しましたが、そこで全日本空手道剛柔会初代会長 山口剛玄先生と遭遇して意気投合し、後日二人で山口先生の自宅に招待されたのは古い思い出です。
 
鳥居隆篤先生 
 昭和35年頃、たまたま上野の市川空手道場(兄弟子)に行ったとき、八光流の道場を開くというので挨拶に来た若い人が鳥居先生でした。その後に佐川幸義先生に入門したので武術界との交際を断ったのですが、佐川道場を辞去後に浪人していたとき、極意道場の弟子が尋ねてきて「私の先生が会いたい」というので一緒に行くと、それが十数年前の知り合いの鳥居先生でした。
 鳥居先生は年下ですが合気系武道では十数年の先輩ですから、再会して色々教えてもらいました。鳥居先生のお宅に遊びに行くとすでに合気も発勁も天才的な理論を完成していて、天下は広いと感心したものです。 

岡本正剛先生
 浪人したとき品川体育館の柔道場で護身拳法を研究していたとき、柔道場を半分にして使っていたのが岡本正剛先生でした。私は大東流のことは隠していたまま付き合っていましたが、岡本先生の合気には感心していました。岡本先生は「3年間で一通りのことを教えます」と言うので、「合気を盗む者がいたらどうしますか」と聞くと「来る者は拒まず、去るものは追わず」と言われていました。私は、岡本先生を技術も人格も一流であると尊敬しています。

大塚忠彦先生
全日本武術太極拳協会東京事務長の大塚先生は、私の兄弟子剛柔流市川素水先生の弟子ですから、私にとっては甥弟子にあたります。大塚先生の勧めにより健康太極拳を教えて生計を立てることができましたが、さらに先生の紹介により日中太極拳交流協会に所属することが出来、そのため十数年に亘り一流の中国拳法老師の講習に参加できました。これが合気の理論的解明に大きな力になりました。

特に主な中国拳法老師
 馮志強老師 陳式太極拳 講習
 丁金友老師 陳式太極拳 講習
 李徳印老師 42式太極拳他 講習

以上  吉丸慶雪

★付記
 『透明な力』43頁に吉丸貞雄についての文章がありますので、誤解を解くために当時の事実を書いておきます。(ただしその理由は部外秘であり、佐川敬行様および木村達雄先生宛当時の資料を付けて説明したものを送付してあります。なお精細な資料は有満が保管しています。)

@ 昭和51年12月22日
 堀辺先生のマンションで佐川先生と吉丸の二人が歓待される。その後、佐川先生と私は二人で東中野の大東合気武術協会の道場に行き、そこで問題があり吉丸は窮地に立たされる。
A その後、先生を國分寺に送る。そのとき先生より「佐川道場の指導」について相談され、翌23日に解決のため佐川道場に行く予定になる。  
B 昭和51年12月23日 
 佐川道場に行く予定も、問題の窮地を逃れるために12月23日を欠席する。
C 昭和581年12月24日
 先生の使者として井上さんが東中野の道場に来るも、窮地を逃げるために「堀辺先生に試合して負けたから道場を止める」と嘘を言う。
D 昭和51年12月27日
 先生に書簡を送る。これは先生と道場生への建前の内容である。
 私は本当のことは口を噤んで誰にも話さなかったので、先生と私以外には真実を知るものはおらず、のちに理由を知らぬ者から「裏切り者」呼ばわりされました。

前略
 書面を以て失礼させて頂きます。
いろいろ事情がありましたとはいえ、当初の覚え書のようにいかなかったことを、誠に心苦しく思っております。
 大東流伝合気道の名称等について御不興の由を堀辺先生に伝えましたところ、事情は別として初段7名の認定について覚え書きに反した点は申し訳ないので、次の処置で御了承を得たいということであります。
1.今後一切の大東流類似の名称は使用しない。
2.そのうちに機会をみて「合気道」の時間も廃止したい。
3.法人化は「換骨会」として内容は換骨術一本とする。 以上であります。

 私も先頃覚え書のようにゆかぬ事情が出て来ました時非常に悩んだのですが、せめて大東流伝合気道としてでも換骨会と一緒に法人化できれば、宗範先生の御名声だけでも広めることが可能ではないかと考えて参りました。
 しかし返って宗範先生の御不興を買うことになり、全く宗範先生に顔向け出来ない気持ちであります。
 私も全く宗範先生御指摘の通り、あまり武術に向いている方ではなく、限界を感じながらも立場上焼ける決心もつかずずるずると続けていたのですが、これを機会に思い切って他の方面に新しい人生を切り開いてみたいと考えます。 
 蛇足ではありますが、宗範先生の御名声を汚すことにはなりかねませんので、大東流を名乗り或いは公式に大東流を指導する等の事は一切致しませんので、その点は御安心頂きたいと存じます。
 本来なら御伺いして申し上げるべきでありますが、それでは結局思っていることを申し上げられませんので、失礼は重々承知の上、書面にさせて頂きました。
 最後に来年は松田君の本も出版され、合気名人としての御名声もいよいよ高まることと存じます。
 宗範先生も非常に御元気の事でありますし、今から気力、技、人格共に宗範先生の跡を継ぐに足る者が必ず養成されると信じております。

 なお私は身辺整理の為と、母も心配でありますので、只今から帰省いたします。
 書面で失礼の段平にお許しの程お願い申し上げます。
 宗範先生にはいつ迄も御健康で、合気名人としての御名声のいよいよ高からんことをお祈り申し上げます。
   昭和51年12月27日
                                                                             吉丸貞雄
合気武術
 宗範 佐川幸義先生                            

E 昭和51年12月30日
 先生の使者として井上定男高校校長と若林秀治さん二人が東中野に来て、先生の条件を「・・・・・・・」示すも意地で断る。
 このとき先生の好条件を断り、「質問状(3)あるとき私が「吉丸さんはどういう人ですか?と先生に伺ったら「損得を考えて動く人だ」と言われました。」の正反対の行動をしたのは私の「損得を考えない」性格がまた出たものですが、このときは息子として父親同様の先生に初めて意地を張ったともいえます。

F 昭和52年1月14日先生の書簡
 その結果、先生から書簡をいただく。

G 「吉丸は昭和51年末に堀辺に入門した」
 大東合気武術協会は私の勝手な都合で突然潰れたので、「大東流伝合気道」は廃止し、後じまいのために、会は堀辺先生の家伝の換骨術を「換骨拳」に変え一本にして、会員用の内部資料として『換骨拳入門』を書き、その後武術界を去りました。「吉丸は昭和51年末に堀辺に入門した」というのは誤りです。
 堀辺先生は尊敬する友人として、現在も交際しています。

H その後、佐川先生は堀辺先生に大東流合気武術中伝三段、吉丸には大東流伝合気道八段を免許しています。 
  

木村達雄先生質問状 平成18年10月19日完結
吉丸貞雄(慶雪)




木村達雄先生からの質問状     平成17年5月25日〜

【始めに】
 木村達雄先生質問状について最初に述べておきます。
 木村達雄先生質問状を掲載するのに先だって、合気錬体会総本部の担当者がホームページの最新情報(5月25日)に木村達雄様に対して批判的な文章を掲載していましたが、私は後継者とか脅迫的云々とかは言うべきことではないと思うので、以後は淡々と私の知っている三十年前の「事実」だけを述べていくつもりですので、その点をお断りしておきます。さらに自分からは公表できなかった「事実」を、仕方なくですが公表する機会を与えて頂いた木村達雄様に感謝しておきます。
 なお佐川幸義先生は頑丈な金庫に膨大な資料を残していて、それの保管・伝承のためには筑波大学木村教授は適任であると考えています。

【木村達雄先生質問状】 
 先日、木村達雄様から吉丸慶雪(貞夫)宛ての詰問状(?)を頂きましたが、これが真正の筑波大学木村達雄教授による詰問状であることを確かめるために、再度同文の詰問状を吉丸貞雄(慶雪)宛て再送付していただきました。その結果まさしく木村達雄教授の詰問状であることを確認し、かつこれは私への親展でもなく私信と考えましたので、詰問状を正確に合気錬体会ホームぺージに掲載させていただきました。

私は重症の心機能障害のため葬祭・交際・賀状など全てを欠礼している状態ですから、返答は「木村達雄先生質問状」として特別枠を設け、以後随時質問状のお答えをしたいと思います。なにしろ30年前の事情から説明する必要が生じましたので、時間がかかることはご了承ください。

さいたま新都心 平成17.5.14  受領 木村達雄様より
(太字、下線は送られてきた文書にありました通りです。行や字数も同じにしましたが、ワープロソフトの違いから行の後ろ側が凹凸してしまいました。ご了承下さい。)

吉丸慶雪 様

初めてお便りをいたします。
その目的は佐川幸義先生の名誉を守るためで、それ以外の目
的はありません。これから書くことはすべて真実ですが、中
には気分を悪くされる内容が含まれているかもしれません。
しかしあくまでも佐川先生の真の姿を知っていただき、先生
の名誉を守ることが目的ですので、どうか心を鎮めてお読み
下さいますようお願いいたします。
問題にしているのは、最近出版された御著書「合気道、極意
の秘密」の61頁〜62頁です。
佐川先生は95歳で亡くなる前日に私が遠慮なくかかって
いくのを本当に畳にたたきつけました。
吉丸さんの弛緩力に基づく合気の理論では、これは不可能で
す。 なぜならさすがの先生もその頃は筋力はすごく弱って
おられたからです。
佐川先生の合気を間違って解釈して、それに基づいて佐川先
生が出来なかった、と書いているのと同じで、
これは著しく佐川先生の名誉を傷つけるものです。

これまでは吉丸さんが勝手に合気を解釈して書いていただ   
けでしたので何も言いませんでしたが、今回は佐川先生に1
5年も習った元弟子が、佐川先生の合気に本質的に限界があ 
った、と言っていることになり、これは許されることではあ
りません。余りにも悪い影響が強すぎます。
本当の合気の原理は(吉丸さんの本を読む限り)吉丸さんが
思いもよらないところにあります。力が抜かれた状態が何を
意味するかは、はっきり説明できます。もし望まれるならお
会いして説明します。そのときは、お知らせ下さい。
とにかく、この本に書いてある弛緩力による原理だったら限
界があるのは当然で、佐川先生の合気の原理は全く異なりま  
す。
これはあくまで自分の考えであり佐川先生の合
気はわからない、と正直に本に至急書いてくだ
さい。
もしそのことを書いた本が出ない場合は、私が
吉丸さんの間違いについて本を書きますので、
ご了承ください。


私は個人名を挙げて間違いを指摘することは出来ればした  
くないので、吉丸さん自身に訂正をしていただきたいのです
が、何らかの理由でそれが出来なければ、佐川先生の名誉を 
守るためにやらざるを得ません。
そしてこのことは吉丸さんも了承の上として書
きます。

これから書くことは、直接関係はおりませんが、お伝えした
方が良いと思いいくつかの事実をお伝えします。すべて本当 
のことです。

(1)私が1978年11月に佐川先生に初めてお会いし
たとき、いくつかの技をやっていただき驚嘆して入門を願い
出たところ
「空手を15年やっていて入門してきた吉丸君が私を裏切
った。もう他流をやっていた人間は信用できない。あんたも
合気道15年やっていたから同じだろう。門人たちも他流を
やったものは入れないほうが良いと言うし私もそう思うか
らね。入門はだめだ。」
と言われました。そのとき、これほど深いところに達した人


物が、ばかな弟子(失礼!)のために、こんなにも人間不信
になり暗くなっているのは、とんでもないことだ、入門を許
されたときは、とにかく良い弟子になって先生に明るくなっ
ていただこうと、決意をしました。
(2)入門してしばらくしたとき、確か佐門会の忘年会(私
は白帯のときから参加を許されていました)でしたが、佐川
先生が先輩たちに向かって「あんたらは吉丸くんのことを悪

く言うけど、家内が病気のとき背負ってくれたり色々やって
くれたので、私は吉丸くんを悪く思えないんだよね」と言わ
れました。
その後私が神田の田村書店で吉丸さんの書いた「換骨拳」と
いう本を見つけて先生にお見せしました。それに「佐川先生
に15年ついて合気は分からなかったが、堀辺先生に教わっ
たら1日でわかった」と書いてあるのを見て「合気がわかっ
たなんて書いているから吉丸君は破門だ!」と激怒され、私
の方を見て「あんたも覚えておきなさい!吉丸君は破門だか
らね!」と言われました。
(今回また同じ過ちをくりかえしましたね)



(3)
あるとき私が「吉丸さんはどういう人ですか?と先
生に伺ったら「損得を考えて動く人だ」と言われました。
(4)吉丸さんが佐川道場に戻りたい、と先生に手紙を書い
たとき、先生は受け入れるおつもりでした。そして私に「吉
丸君と会ってきなさい」と言われました。そうするつもりで
いましたが吉丸さんを知る二人の先輩(田口さんではありま
せん)が、吉丸さんの復帰に猛反対をして、先生も結局断念
されました。
(5)だいぶ前ですが、先生が玄関を整理されていたら吉丸
さんの合気道講習の案内が出てきて、「なんだ、これは!」
と先生があきれておられました。それには、すぐ申し込めば
割引、なんて書いてありました。
(6)私は先生の受けを毎回のようにとっていましたが、
あるとき先生は「ちょうど今私があんたをしょっちゅう投げ
ているように、昔は吉丸くんを良く投げていたんだよ」と言
われました。
(7)先生は「私は昔は秘密主義だったから、吉丸君
は合気について何もわかっていないよ。合気については何も
話していない。私が少しでも色々教え始めたのは80才を過


ぎてからだ」
と言われました。「昔は体を鍛えることすら秘密だったんだ
よ」とも。
(8)佐川先生は良く「吉丸くんと大阪万博へ行ったんだ
よ」と話されていました。楽しい思い出だったようです。
(9)あるとき台所で先生に吉丸さんの「私は先生がおっし
ゃるとおり気が弱くて武術には向かないと思いますので別
の道を歩みます」という離門状を見せていただきました。そ
して「もっと気を強くさせてあげようと奮起を促すことを期
待して、色々うるさく言ったのだけど、きっといやになって
しまったんだね」と静かに言われました。
(10)吉丸くんと田口くんとが対立していたことは知って
いたが、放っておいたのだ。
(11)吉丸くんは横面打ちの逆手が長い間出来なかった。
(12)吉丸さんがやめたあと吉丸くんの関係者はすべて
やめさせた。内野さんや田口くんが頼んだ人も受け入れな
かった。
(13)吉丸くんは体は大きいが気は弱かった。自分より小
さい座捕りで後輩に投げられているんだからね。


もし吉丸さんの訂正の本が出ない場合は、以
上の逸話を含めてすべてを何かの機会に詳し
く本に書くことをご了承ください。

なお同封した本には極真空手館長の松井章圭さんが合気で
飛ばされる話が出ています。100Kg以上あるもと世界チ
ャンピオンの松井さんが、本気で抵抗するのを、弛緩力で2
メートルも飛ばせると思われますか? 全く異なる原理で
初めて可能になるし、だからこそ佐川先生は本当に年をとっ
ても出来たのです。真の合気には吉丸さんが本に書いている
ような限界は少なくとも原理的に存在しないのです。誰でも
出来るようにしたいという気持ちは分かりますが、吉丸さん
のいう弛緩力や気を合わせることは「合気もどき」であって
合気ではありません。かつて先生とあの額をみながら話した
ことがあります。「これは私が書いたのだか字が1箇所間違
っている。」「合気は気を合わせることである、と書いています
が、そうなのですか?」「こんなのはわざといい加減に書い
ているのだよ。」


本をきちんと書けば吉丸さんのことを決して悪
くはいいませんが、そうでない限り(たとえ吉丸
さんがこの世を去ったあとでも)先生の名誉を
守るために吉丸さんの間違いを指摘し続けます。
どちらが良いかよく考えてください。


  木村達雄 (研究室電話029−×××−××××)

  〒300−08×× 茨城県××市


追伸:私は武田先生、佐川先生の名誉を
守るためには何でもやりますので、覚えていてください。


【木村達雄先生質問状】−1 第1信
 木村達雄様
 お手紙拝見いたしました。

 まず吉丸慶雪(貞夫)として受領した木村達雄様からの書簡は、間違いなく筑波大学木村達雄教授から私宛の書簡であることと思われますが、確認のために、私の正確な宛名、吉丸貞雄(慶雪)に対して、同前の書簡を再度送付してください。
 それに対して誠実に返答をしたいと思います。

17.5.10
  吉丸貞雄(慶雪)拝

【木村達雄先生質問状】−1 第2信

 先日、木村達雄様より吉丸貞夫(慶雪)宛に詰問状が送付されてきましたので、間違いなく吉丸貞雄(慶雪)宛の詰問状であることを筑波大学木村達雄教授に確認しましたところ、木村達雄教授本人からであることが確認されましたので、次の返信を出しました。同時に詰問状の全文を正確に合気錬体会のホームページに公表しておきます。

 8枚の詰問状は吉丸への私信ですので、正確に合気錬体会HPに掲載いたします。ただし9枚目は「佐川道場の皆様へご報告」となっているので、当面9枚目および裏面の公表は控えておきますが、特別の申し入れがない場合には、木村教授の了解を得たものとしてHPへの掲載をいたします。

 なお私吉丸貞雄(慶雪)は重度の心機能障害のため、直接の書簡の遣り取りは不可能ですので、それ以後は合気錬体会のホームページを使って木村先生からの詰問状については随時公表する形にいたします。
 なお昔のことで病気(失語症)もあり、正確に昔のことを想い出すのに時間がかかりますので、想い出す度に公表することにいたします。

17.5.24  吉丸貞雄(慶雪)


(経過が分かりにくいとのご指摘をいただきましたので、木村達雄先生からご質問状をいただいて友好関係を結ぶまでの総本部最新情報を経過に沿って記載しておきます。これで分かりやすくなると思います。そして念の為に申し添えますが、この欄の一切の責は総本部 有満庄司にあります。)

最新情報

合気錬体会総本部     
有満庄司(アリミツショウジ)

aiki-rentai@777.nifty.jp

 吉丸慶雪総師範の自宅宛に、佐川道場後輩の筑波大学木村達雄教授より脅迫状が送られてきました。最初は木村教授の名を騙ったたちの悪いイタズラ位に考えましたが、内容がやけに佐川道場の事情に詳しいことなどから念の為に確認を取ったところ、木村達雄教授からのものに間違いないことが確認されました。

 その内容は、とても大学教授とは思えない「○○しなければ、××する。」という脅迫の常套句の羅列ですね。
 とても一般常識がある社会人の書いたものとは思えません。
 最後には「以前にこんなことがあってこうさせた。」というのがあって「何でもやりますので、覚えていてください。」と終わっています。
 途中は、「佐川先生からこう聞いたから間違いない。」と決め付けていますが、社会常識があれば「佐川先生からこう聞いておりますが、間違いは無いでしょうか?」とたずねるのが当たり前です。先輩と認めたくなくても年長者に対する礼儀というものが有ります。
 これが学生を監督指導する立場にある大学教授のやることか?と考えると悲しくなりますね。

 また「何でもやりますので、覚えていてください。」とありましたので、以前より吉丸先生の身の回りに気を配らなければならなくなりました。吉丸先生は、「合気道 極意の秘密」のあとがきにありますように心機能障害を患っておりますので、心配です。
 ですが合気錬体会はこのような脅迫に屈する気はさらさらありませんので、対抗策としてこの脅迫状は「木村達雄様詰問状」として全文をこのHPに掲載していきます。同様に吉丸慶雪総師範の全回答もこのHPの「木村達雄様詰問状」のコーナーに載せていきます。
 詰問状としたのは、佐川道場の後輩であること、同封してきた「一撃の拳」という本のP.315〜P.321で故佐川幸義先生の後継者を主張していること、30年前の真実を知らないこと等から配慮したもので、内容は脅迫状に間違いありません。もちろん、間違いを指摘したり反論したりするのはよいことですが、「○○しなければ、××する。」と脅すのは社会通念上、脅迫と見なされます。「何でもやりますので、覚えていてください。」とやるのはもっとタチが悪く、常識がある人であればまず言いません。意味は「何でもやってやる、覚えてろ。」ということですから、言葉使いが丁寧であれば何を言ってもいいということは有りません。

 木村教授からの脅迫状を読んですぐに思った率直な感想は、木村教授が「佐川幸義先生ならいくら歳をとっても世界の強豪を投げ飛ばすことができる」と信じているなら、その晩年の合気を取られた木村教授が世界の強豪を相手に試合して実証すればよいだけで、佐川先生60〜74歳の合気を取られた吉丸先生に脅迫状を送ってくる必要は無いと思いました。合気は進歩するものですから、木村教授が試合でも講習会でもやって、そのことを実証すれば良いのです。
 実際、合気錬体会は合気を取ったと言うだけでは嘘になってしまうので、講習会を開いて実証に努めています。北は北海道から南は沖縄までさまざまな方々が参加してくださっています。立派な体格と力の持ち主、一流の反射神経と身体能力を発揮される方、他武道の高段者、それに元佐川道場生もおられます。
 マネをしろとは言いませんが、実証すれば「確かに木村教授の言うことが本当だ」で決着がついて話は終わりになるのです。簡単な話です。

 木村教授からの脅迫状を読んでの疑問点が、いくつかあります。
 @この文は佐川道場の総意なのでしょうか?

 A本当に木村教授が佐川先生の後継者なのでしょうか?佐川先生は大変に几帳面な方だと聞いておりますので、どこかに自筆で後継者指名の記録が残されているはずです。それに90歳を過ぎた佐川先生が木村教授が「本当に合気をとった」と認めておられれば、吉丸先生と同じ奥伝4段ということは無いと思うのですがどうですか?すぐに7、8段に昇段させたと思うのですがどうでしょう。

 B後継者なら佐川先生の残された膨大な記録も引き継いでおられるはずです。佐川先生60〜74歳の合気は間違いなく体の合気でした。晩年の合気が意識の合気なら、どこかに「合気とは、・・・・・意識による。」と記録が残っているはずです。全文を公開しなくてもその部分だけでも公開すれば納得できますが、「透明な力」に載せたことは嘘でした、と謝罪しなければならないでしょうね。「透明な力」に載っている佐川先生の口伝に関しては吉丸先生の記録とほぼ一致いたしますので、矛盾はありません。

 C木村教授は自分だけが合気を取ったと主張されておられますが、他の師範の方々もそれなりに合気を取られたのではないですか?○○年も師事された師範方は(受け取る側の問題もありますが)、それなりに感得されておられると思います。自分だけが取ったと主張されるのはどうでしょうか?その方なりの合気というものがあって良いはずです。

以下、続く。

平成17年5月25日

 「木村達雄様詰問状」を更新いたしました。
 やはり吉丸慶雪先生は、分別のある大人で紳士ですね。脅迫状を送ってくるような者にも、(晩年の佐川先生の面倒を見ていただいたのだからと)自分が一歩引いて対応されるのはなかなか出来ることでは有りません。
 そして仕方なく30〜40年前の真実を公表されるようです。吉丸先生の話される故佐川幸義先生は、決して合気の神様などではなく人間味のある優しいが厳しい親父という感じで、またそれをとても嬉しそうに話してくださいます。
 佐川先生が腰を痛められたときや吉丸先生が佐川先生の息子さんと碁をうって帰るときのエピソードとか、とても人間味があって私はそちらの佐川先生の方が好きなんです。

平成17年5月26日

 昨日、木村達雄先生より吉丸慶雪総師範の御自宅に宅急便で手紙が届きました。
 さらに本日(5/27)の早朝には、木村達雄先生より吉丸慶雪総師範の御自宅にお電話が入り和解の申入れが行われました。そして今回の件につき色々と話し合われ、双方の誤解によるものと判明致しましたので吉丸総師範も快諾いたしました。吉丸先生によりますと、木村先生は謙虚であり丁寧な話し振りで、とても好感をもてたとのことです。
 また本日の昼前には追伸で手紙が届き、木村先生には最初から吉丸先生を害するようなつもりは無く、強い調子に私が過剰反応しただけだということも分かりました。木村先生、申し訳ありませんでした。
 そして昼頃、木村先生より吉丸総師範宅に二度目のお電話が入り、佐川幸義先生のこと、佐川道場のことなどを話され意気投合されたようです。もともとは同じ師につかれたお二人ですから、誤解が解ければ気が合うのでしょう。木村先生も「もっと早くにお電話を差し上げれば、良かったのですが。」と話されたそうです。
 その際に、今回の件で木村先生のご質問に答える形で、「木村達雄様詰問状」にて30〜40年前の「事実」をありのままに述べることを木村先生にもご承諾いただきました。
 
 以上で、今回の件は円満に解決されました。このことを皆様にご報告申し上げます。各方面の関係者の皆様にご心配をかけたことをお詫びいたします。

平成17年5月27日

 本日、吉丸慶雪総師範より詳細を伺ったのですが、27日夜10時過ぎに木村達雄先生より3度目のお電話をいただいたそうです。その際、木村先生は吉丸総師範に謝意を述べられ、今後は故佐川幸義先生の為にもぜひ友好関係を築いていきたいと申し出られたそうです。もちろん、吉丸総師範も喜んで同意されました。(まったく誤解が解けた後の木村先生の態度は、その対応の早さと潔さに、度量の広さを感じさせられます。)

 また吉丸総師範は今回の件で、私(有満)が吉丸先生の安全と名誉の為にとはいえ、強い態度に出たことを戒められ、「私(吉丸)の名誉など、どうでもいいことだ。そんなことよりも私が佐川幸義先生の教えを基に30年掛けて、その極意(合気の原理)を解明し、無事に後継者に引き継がせたということが大事なのだ。」 「実際にできるようになったのだから、やって見せるだけで良いのだ。できるとかできないとかいうことも、やはりどうでもいいことだ。」 「簡単に皆、「佐川先生の合気」などと言うが「佐川先生の合気」は合気の原理に気づいた佐川先生が、毎日数時間に及ぶ鍛錬を数十年も積み重ねてできるようになったもので、常人にまねできるようなものではないのだ。」 「「佐川先生の合気」は、常に進化発展していた。だから、その教えを受けた師範各々が、一生をかけて研究発展させていけば良い。」とやさしく諭されました。

 私には、まだ吉丸先生の名誉がどうでも良いとはとても思えませんが、それ以外は確かに吉丸先生の言われる通りで、今後は態度を慎みたいと思います。
 また木村先生との友好関係を深める為、「木村達雄様詰問状」のコーナーは「木村達雄先生質問状」とタイトルを改めさせていただきます。

平成17年5月29日

 「木村達雄先生質問状」を更新いたしました。
 今朝も木村達雄先生よりお電話があり、今後のことなど色々話し合われたそうです。本当に気が合うようですね。
 またその際に木村先生より、佐川幸義先生のご子息様からの伝言があり、吉丸先生はとても嬉しそうでした。私もとても嬉しいです。

平成17年6月1日


【木村達雄先生質問状】− 2   17.5.23

 今回は筑波大学木村先生に頂いた1−8枚になる詰問状に対して、最初の返答を送付すると共に、合気錬体会ホームページで公表いたします。なお簡単に書き述べることは出来ない問題ですので、順次合気錬体会ホームページに公表することにいたします。

木村達雄先生
 同封の文書は筑波大学木村達雄教授より吉丸貞雄(慶雪)宛に送付されたものと確認できましたので、これから返答させて頂きます。
 
 木村先生が問題にされているのは『合気道極意の秘密』の61頁〜62頁のことということですね。
 「私が先生は95歳で亡くなる前日に私が遠慮なくかかっていくのを本当に畳にたたきつけました。」と木村先生は言うのですが、私は見ているわけではないので何も言うことはできません。恐らく「木村さんが体験したこと」は「事実」と思います。

 しかし養老孟司先生の『バカの壁』の中で、「客観的事実が存在する」というのはやはり最終的には信仰の領域だと思っています、と書いてあります。つまり外面を見ていても、それが事実とは限らない。たとえば師弟の間で何が起きているのか、心の関係まで私たちには分からないということです。だから私は本当と言うこともできず、本当ではないとも言うこともできません。
 師の真実はこうだと自分が信じていればそれで良いだけであって、その「事実」を他人に信じさせようとしてもそれは出来ないことだと「バカの壁」にあるとおりと思います。
 
「弛緩力に基づく合気の理論では、これは不可能です。」と言われても、私はこのように考えているだけで、あくまでも理論というものは仮説の問題であり、それが「真理」であると主張しているわけではありません。
(弛緩力というチカラと誤読する人が多いのですが、これは単に体の動かし方の問題であり、人間は生来の動作と、伸筋制御運動の2つしかないと言っているだけなのです。)

 だから養老先生は「科学には反証が必要」と書いていますが、弛緩力について「反証する」ことが必要ではないでしょうか。木村先生は吉丸の間違いを指摘するだけではなく(もちろん理論の間違いを指摘するのは良いことです)、もっと進んで「透明の力」とは何か、「佐川先生の合気の原理は全く異なります」ということを、多くの合気修行者に開示することが必要ではないでしょうか。

 私は14年間(15年は佐川先生の思い違いです)合気武術は先生に習いましたが、「佐川先生の合気」は教わっていないし、「佐川先生の合気」はできないと、公言しているとおりです。
 そして佐川先生には60歳から74歳までの14年間の教えを受けただけで、その範囲内で研究を進めてきたものであり、自分なりに解釈しているものであることは間違いありません。だから「佐川幸義」の極意とか佐川幸義先生の「極意」としており、これは「」付きで書いているつもりです。

 その後のことは木村先生がよくお分かりと思いますので、木村先生にはぜひ『透明の力−第2部』を出し、より大衆の迷妄を晴らして頂きたいとお願い申し上げておきます。

 私事に渉りますが、私は「心機能障害」で長く生きることはありませんし、吉丸家は私と猫1匹で断絶いたします。脳梗塞で失語症となっているので書簡のやり取りは出来ないので、この点お断りしておきます。

 なお「もしそのことを書いた本が出ない場合は、私(木村先生)が吉丸さんの間違いについて本を書きます」ということについて、私吉丸は喜んで了承しておきます。

 また私の残された時間は少ないので出来るだけ早く出版をして、私の迷妄を晴らして頂きたいとお願いしておきます。
★返答の続きは合気錬体会ホームページに掲載しますが、それ以降も関連事項の公表は正確に思い出すのに時間がかかりますので、承知しておいてください。 

17.5.23 吉丸貞雄(慶雪)


次の「吉丸の逸話」についてのお答えは、生命の危機に際して資料は全て後継者に譲っていますので、時間が掛かるのを承知していてください。当面のお答えを次に述べておきますが、私が佐川先生の名誉を守るため三十年間の沈黙を続けて、「裏切り者」と言われたまま死んでゆくつもりでしたが、仕方なく真相を公表することにします。
 今まで自分からは佐川先生のために公言できなかったのですが、仕方なくとはいえ死ぬ前に木村先生のお陰で真相を公表出来るようになったことを感謝しておきます。

【木村達雄先生質問状】   第3信  17.6.1

 木村達雄先生と吉丸慶雪が電話で話し合った結果、当時の事情などを互いに理解できましたので、佐川道場関係者各位として以下のように報告しておきます。

佐川道場関係者各位      17.5.29                      吉丸慶雪
 先の文書について、木村達雄先生と吉丸慶雪の両者とも佐川幸義先生の栄誉を護るために志を同じくするものであり、互いに理解することができましたので、これ以後佐川幸義先生の道統を発展させるべく協力してゆくことになりましたのでご報告いたします。

木村達雄先生への吉丸慶雪の返書
 木村先生に返書するにあたり、木村先生が佐川幸義先生に聞いた情報には偏ったものもありますが、師匠の立場というものが厳然とあり、いかなる理由があるにせよ「敵前逃亡した弟子」を良く言うわけにもいかないのは当然のことですから、佐川先生の心中には苦しいものがあったと思っています。

 従って(1)−(13)の質問に対しては友好的な態度で誤解を解いてゆきたいと考えています。これについて木村先生によって弁明の機会を与えて頂いたことを感謝しています。

(1)「先生が人間不信になった」のではありません。60才から14年間も手塩に手がけた弟子を、自分のせいで失った、という自責の念があったのです。
 それが起きたのはほんの数ヶ月の間に過ぎす、先生の本心は十分過ぎるほど分かっているので、佐川先生を誤解させないために、武道界で三十年間何を言われても沈黙を続け続け、私が悪者になって、そのまま死んでもよいと割り切って考えていました。
 しかし木村先生の質問状により当時の事情を明らかにすることが出来るようになりましたので、木村先生には感謝をすることになりました。

(2)「病気のとき背負ってくれた」ということについて詳細は後で述べます。

(3)先生の本心は分かっているだけに「損得を考えて動く人だ」などという言葉について全然気にしません。

(4)佐川道場に帰りたいと手紙を書いたことはありません。しかし古い門人たちが誤解して「復帰」に猛反対し、先生の心の平安を取り戻すチャンスを潰したのは残念でした。
 木村先生の手紙で佐川先生の本心が分かったのは、やはり私の思ったとおりでした。

(5)なにしろ30年前の事ですから合気道講習の案内は佐川先生の思い違いでした。なおこの件は堀邊正史先生の換骨拳(現在、日本武道傳換骨会)について関係があり、その真相は段々に公表する予定です。

(6)それは本当で、佐川幸義先生の受けは私の役目でした。

(7)「吉丸君は合気について何も分かっていないよ」というのは本当です。何も分からないからこそ師の技を30年間も独りで考え続けたのです。

(8)日立中央研究所の出張として、大阪万博に二人で行きました。佐川幸義先生と双気道上野学創始師範(佐川幸義先生門下)と大阪で合流しました。

(9)離門状というのは佐川先生に対しても門人に対しても傷つかないように言葉を選んだもので、これについては後で分かってきます。

(10)「田口君と対立していた」ことについては、次回に詳しく書いてみようと思います。このことについては田口さんに苦言を呈しておきます。私は田口さんのために松田隆智先生との友情を失い、私は誤解されたままで死ぬところでした。生きている間に松田先生に弁明する機会を得たことは、木村先生のお陰だと感謝しています。

(11)横面打の逆手というと小手返しのことでしょうか。全ての逆手は頑張ると、合気ができない限り効きません。従って70才で合気が分かって、始めて逆手が効くようになりました。

★「吉丸くんは横面打ちの逆手が長い間出来なかった」ということについて。
 木村先生にお聞きしたところ「横面打ちの逆手」は『合気道極意の秘密』第B部・一元合気錬体法・第9錬「横面打ち−逆背負い投げ」のことで、これは佐川先生が鍛錬のために「奥の手」を一元に編入したものですから、「吉丸くんが5年もかかったよ」というのは別に悪い意味ではなかったのです。

(12) (13)
 以上について、昔の佐川道場の稽古法、先生の指導語録などについては【佐川道場修業録】(要会員登録)として日記を公開する予定ですので参考にしてください。

平成 17.6.1
吉丸貞雄(慶雪)

【木村先生質問状】−4     

(10)「吉丸くんと田口くんが対立していたことは知っていたが、放っておいたのだ」

 その答えは「対立などしていなかった」ということです。しかし迷惑したのは事実です。

 それは忘れもしない国分寺駅のホームでのことでした。
 話(道場の事)の成り行きで、田口さんがあまりにもうるさく言うので、私は田口さんに「友人の松田証(隆智)さんが、今、中国拳法の研究で台湾に行っている」と書かれた空手新聞をうっかり見せてしまいました。
 私は、松田証(隆智)さんから大山倍達先生や佐藤金兵衛先生などに習っていることを知らされていましたが、それを知らない田口さんが騒ぎ出したので、直ぐに気がついて「佐川先生には絶対に言わないでくれ」と何度も何度も繰り返し繰り返し、念を押して頼んだのですが直ぐに告げ口されてしまいました。

 その為に私は佐川先生に叱られ、松田証(隆智)先生は佐川道場に来ることができなくなり、それ以来30年間も松田証(隆智)先生に「私吉丸が告げ口をした」と誤解されたままで私は死ぬところでした。生きている間に松田先生に弁明する機会を得たことは、木村先生のお陰だと感謝しています。

 木村先生とは「佐川先生の道統を発展させるべく協力したい」と考えますので、これだけに止め、佐川道場の関係者にのみ詳細を知らせておきます。
 なお追補しておきますが、田口さんは私より3年ほど前に入門した一番古株の門人であり、考えてみるともう50年くらい佐川道場に通っているのですからこれは大したものです。
 反省すると、私はまだ我慢が足りなかったのかと考えてしまいました。



佐川道場にて


























平成 17.6.8
吉丸貞雄(慶雪)

【木村先生質問状】−5     

 木村先生に頂いた質問状で、当時の佐川道場について知らない人のために、30年の封印を解いて説明しておきます。
 それから始めに断っておいたように、話は長くなります。

 佐川幸義先生が有名になったのは、津本陽先生の著書『黄金の天馬』という合気道道主植芝盛平翁の伝記を書いた時に、植芝先生が師事をした武田惣角先生の存在を初めて知り、『鬼の冠』を書いたのが発端になります。

 津本先生が惣角先生の事績を取材中、惣角先生には佐川幸義先生という高弟が現存していて合気の名人であることを知り、津本先生の紹介により始めて佐川先生が世間にしられ、それから入門希望者が少しずつ増えてきたのです。

 私が入門したときは、合気道はよく知られていましたが、武田惣角先生も佐川幸義先生も全く知られていませんでした。現に私自身、柔術をやっている先生が居るということくらいしか知りませんでした。

 そこで私吉丸の入門の経緯について述べておきます。国分寺駅から佐川道場に行く途中に空手道場がありますが、それが小枝指先生の道場で、現在は空手界の長老となっています。
 私は当時、剛柔流泉武館本部師範代4段、琉球古武術は平信賢先生に師事、国分寺の日立中央研究所に赴任して小枝指先生と知り合いました。
 そのとき小枝指先生が「いつも私が畑に行くとお爺さんが居て、”おまえは空手をやっているのか、わしが武術を教えてやる”と言うのですよ」と言うのです。お爺さんとは失礼ですが、若い頃はそう見えるのです。私も74才になるのに自分ではお爺さんとは思わないのですが、その代わりに30代でも子供に見えてしまうのです。
 
 小枝指先生と知り合う以前、あるとき泉武館に柔術をやっているというあるお爺さんが尋ねて来たことがあります。その方は、今、考えてみると20代の私にはお爺さんに見えたのですが、やはり50代くらいだったのではないしょうか。私たちは興味津々で逆手を掛けてもらいました。すると全然効かないのです。
 それで私は柔術など効かないと思っていました。

 ということで「柔術をやっているお爺さんが居る」ということを聞いて、興味を持った私は日立中研の若い者を連れて見学に行きました。そうするとそこの先生が道場に上げ色々説明をしてくれたのですが、先生が手首を軽く持つと「痛い!」(顔には出しませんが)と思ってしまいました。
 それで「これは面白い」と早速入門してしまったのです。(後で考えると二ヶ条逆手でした)

 家に帰って入門案内書を読むと、それが大東流合気武術佐川幸義宗範だったのです。それが昭和36年11月1日、そのとき貰った案内書は今でも持っていて『合気道 極意の秘密』の解明で使いました。

 当時、道場には4.5人くらい来ていたでしょうか。そのころ誰も来ないこともあり、先生に一人で「手解き」を教わったのを今でも良く覚えています。
 先生に聞くと、以前は近所の高校生が習いにきていて、合気拳法を教えたとこともあると言われていました。

 当時の稽古日は夜は月・水・金・土、昼は土・日(その他不明)で田口さんが世話人で、入門以後、私は月水金土は14年間、出張以外では欠席したことはありませんでした。

 また先生は「総角先生は武士が手を取らすことがあるか」と言って技を掛けるだけの稽古だったので、わしも同じようにしていたから若いころの弟子は「痛いだけだったろう」と言っていました。(私が入門してからも5.6年は、来ていた全員に先生の腕を取らせてくれたものです)
 
 先生も60才になってからは、少しは弟子を養成する気になったようです。



  

  夜のクラスのメンバー(左側から)
  学芸大相沢君、日立中央研究所 吉丸貞雄、同高杉君、同鈴木君、学芸大小原君



 なお私の日記による昔の佐川幸義先生の語録などを後日、公開しますので参考にしてください。(ただし会員登録を必要とします)

 多分1982年ころから武道雑誌で「合気」が取り上げられるようになると果然合気が流行になり、合気道に飽き足りない人たちが佐川道場に殺到するようになったのですが、それには木村達雄先生の『透明の力』が貢献しているものと思います。だから繁盛している現在の佐川道場しか知らない人には想像もできないほど閑散としたものだったのです。 

平成17.6.19更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村先生質問状】−6              

 「損得を考えて動く人だ」
 というのには放っておこうと思ったのですが、なぜそれが「損得を考えて動く」ことになるのかが理解できないので、簡単に私の履歴を書いてみます。ただ、こういうことは進んで外部に知らせるべきものではないと考えていますが、成り行きで公表するものです。

 と同時に、また私の門弟たちにも、なぜ世間的には非常識で、馬鹿げた人生を生きているのかを変に思っている筈ですから、せめて門弟たちには話しておきたいと考えたのです。
 私には金銭欲も名誉欲も全くありません。ですから家もなく、家族も作らず、最低レベルの生活しながら好きなことを一生続けてきたのですが、今一生を振り返って本当に満足しています。

 父は大分県佐伯町「酒類問屋」を営っていましたが、戦後の混乱で過労のため45才で死に、後は祖母と母、それに子供4人が残りました。戦後の土地改革のために、佐伯の財産を処分して本籍地に帰ったのですが、結局不在地主とされて田畑を殆ど取られてしまいました。

 母は残された小さい田畑を耕し、残された道具類を売りながら、苦しい中から長男である大学に出してくれました。だから私は長男として母と3人の姉弟の面倒を見るのが義務と考えて船員になりました。陸の給料では家族4人の生活を支えることは出来なかったからです。

 家族の生活のめどがついたとき、ニューヨーク航路を最後にして船員をやめました。3年在職すれば退職金が出るのですが、自分の都合で退社するのに退職金を貰っては申し訳ないと考えて、2年11ヶ月で退社したのです。課長も、会社は痛くも痒くもないのだから辞表は3年にしなさいと言ってくれたのですが、それが私の考え方なのです。

 (ニューヨーク航路でキューバに寄港して空手を披露したことがあります。このとき月千ドルは確実だからキューバに来ないかと勧められました。当時の千ドルは日本では36万円で、日本人の月給が5.6千円のころでした。)

 しかし私の性格であったというより、私が卒業して就職した途端に、私は大変な体験をして、考え方が変わってしまったのです。

 昭和29年5月から三菱海運の松浦丸に乗り組みました。卒業したその年(1954)の9月26日、松浦船は津軽海峡を過ぎて小樽に向かっていました。三席通信士のワッチは20時からですが、21時ころからどこかの船で・・・−−−・・・というSOSが聞こえてきて、私の始めての経験で興奮しているうちに、自分の船も台風に巻き込まれてしまったのです。通信室では通信長はデスクにしがみついて必死になって交信していましたが、本船は木の葉のようにチッピング・ローリングして机の上のものは全部落ち、二席通信士も私もどこかにしがみついているだけでしたが、不思議に頭は冴えていて「これで死ぬのかな」と考えていました。

 相変わらずどこかの船のSOSが聞こえていましたが、そのころ青函連絡船の洞爺丸遭難のニュースも入ってきたのです。(と言っても若い人には青函連絡船も分からないと思いますが。)

 後で聞くと、松浦丸も台風の波風に一晩中翻弄されて舵が効かなくなり、あわや留萌の崖に衝突するというとき、船長が最後に思い切って舵を回したのが効いて、辛くも遭難をまぬがれたのが翌朝のことでした。また本船は復元能力は45度のところメーターは60度を示していて、転覆しないのが不思議だったということでした。

 その6時間も続いた「死を覚悟した体験」はこれからの人生を変えてしまったのです。

 昨年2004年9月26日は、タイタニック号に次ぐ、史上第2位の海難事故である青函連絡船洞爺丸の遭難があった50年目に当たります。遭難時間は22時43分で、そのとき同じ海域で同じ時間に、私は死を覚悟した体験をしていたわけです。

 船員を止めてから私は泉武館本部道場に住み込んで、泉川先生のご好意で家族と一緒に生活させて頂きました。郷里の私の家族は失業保健で仕送りしていました。それから3年間、泉武館総本部の師範代として過ごすことになります。

  

泉武館総本部師範代時代。昭和33年のクリスマス 泉川先生のご家族と一緒に。
左写真は泉川寛喜先生。 右写真は右より(後の)泉武館第2代目泉川寛文宗家・第3代目泉川勝也宗家・吉丸・仲間文雄小林流師範

 第2次大戦の前、剛柔流空手道の正式な師範が本土に来たのは泉川寛喜先生だけでした。糸東流の摩文仁賢和先生は昭和初年には関西に来られていましたが、剛柔流の師範が居ないかったために、空手部などでは糸東流の摩文仁先生から剛柔流の型を習ったと言われています。
 とにかく私は、

    東恩納寛量−宮城長順−比嘉世幸−泉川寛喜−(吉丸貞雄)

と続く正伝の剛柔流に触れることができたという幸運に巡り会うことができたのです。

 なおこのとき私は(1957)大分市に在住していた許田重発先生を訪ねました。許田先生は泉川先生の小学生のときの恩師であったので、東恩納寛量先生に三十六(サンセールー)を教えてもらい帰京しました。というのは剛柔流始祖の宮城長順先生が兵役のために東恩納寛量先生に三十六を習うことができず、許田重発先生だけが三十六を習ったという経緯があったからです。

  東恩納寛量−許田重発  東恩納流

             

  東恩納流 許田重発先生を泉武館師範代として訪ねる。
  仲間文雄は知花朝信直弟子。私の義弟。

 泉武館総本部の師範代のとき、嘉世幸先生の直弟子である崎山宗源先生(寛喜先生の弟弟子)が尋ねてくるようになりました。

 昭和33年(1958)2月(これは旧暦12月)、宗源先生のコネにより三島龍澤時の座禅会に1週間参加することになりました。ところがその座禅会は単なる座禅会ではなく、蝋八大接心(ローハツダイセッシン)というとんでもない大修行だったのです。

 後で分かったのは臘八は蝋月八日の略で12月8日のこと、その日は釈尊が菩提樹下において暁の明星を見て悟りを得た日ですから、禅宗では12月1日から12月7日まで座禅三昧に入り、12月8日の暁に至って座禅を止め本堂で法要を営むのです。
 三島龍澤寺は白隠禅師開門の臨済宗禅専門道場であり、当時三十人くらい修行僧がいましたが、素人がローハツ大接心に参加することは出来きません。典座和尚だったので宗源先輩は相当に重役だったのでしよう。空手の修行に役に立つと考え、老師に頼んでくれたのかもしれません。

 そのときの龍澤寺の住職は中川宋淵老師で、他に隠居された山本玄峰禅師がいました。私もお供を連れて散歩されている九十才くらいの老師を見かけたことがありましたが、それが有名な山本玄峰禅師でした。最近分かったのですが、お供についていた坊さんは、これも有名な松原泰道老師だったのです。

 蝋八大接心はとにかく座禅三昧でよく保ったものと自分でも感心しましたが、細かいことは覚えていません。ただ最初の日の明け方、本堂で結伽扶座して座っていたのですが、般若心経も終わり、(津軽海峡を通過するときは必ず般若心経を供養していたので般若心経は覚えていました)坊さんが順々に立って外に出てゆくので焦りました。私は足が痺れてしまって、必死になってどうにか立つことができたのは覚えています。

 2.3日してから起床が早くなり、確か3時ころからか禅堂で座禅をしていると、外でミシミシと氷が凍る音がするのを今も強く脳裏に残っています。そのころは無理をしないで半伽扶座で座禅していましたが1時間座禅すると経行したとか講義もあったとか細かいことはもう覚えていません。しかし一番記憶に残った体験は、中川宋淵老師の部屋に行って老師に礼拝し参禅したことと、最終日には朝の起床から翌朝の未明までとにかく座禅・座禅をしたこと、でした。

 その後超能力がブームになり、私も密教の千日行を達成し、目黒不動の滝行、これは11月初めから2月末まで毎週土曜日に欠かさずやりましたが超能力は全然駄目でした。

 内野さんが佐川道場に入門したのはたしか1972年くらい、そのころ内野さんに仙道連を紹介されて、世田谷の仙道連に通いました。日曜日はたまに佐門会があったりして昼間の行はあまり熱心にしなかったのですが、毎週日曜日の夜は必ず五千言坊玄通道士の「老子」と「相法」の講義に出席し、これはまじめに3年ほど通いました。

 「損得を考えている人だ」
という関連して長々と書いてきましたが、要するに何を言いたいのかというと、五千言坊玄通道士により仙人は「山上の人」俗人は「谷底の人」であることを学び、私としては山の上に居て「損得を考え」ずに恬淡として生きてきたと思っています。

 当時の佐川道場における私の立場としては、普通の人にとっては、道場を辞去するのは「損」に決まっています。

 「家内が病気のとき背中に負ぶってくれたりいろいろ、、」
については後で詳しく述べますが、日立製作所では昭和48年に副参事に任用されています。私は副参事に任用されてから、仕事に全力投球するのか趣味に生きるかを考え抜いて、結局趣味を選んで日立中央研究所を退職することにしたのが昭和49年のことです。




 そして因縁というか、ちょうどその時に佐川先生の奥様が胃ガンとなり、失業保険で生活しながら多少の手伝いをさせていただいたわけです。このことについては後に述べることになります。

 その後奥様が死去されてから佐川道場を辞去、義理で換骨拳の立ち上げを手伝い、その後浪人して現場労働者・解体屋・ガードマンなど最低の日給で母を養い、その後泉武館の後輩の大塚忠彦先生(現武術太極拳協会東京事務局長)の薦めで健康太極拳の教室を開きました。

 それ以後公民館など健康太極拳の教室を開いてやっと生活出来るようになって、これまできたのです。

 しかし日立に勤めながら佐川道場の地位を保っていたら、今頃は佐川道場40年と先生の自慢をしながら一生を終わったと思います。もちろん自分では合気ができないのは確実でした。

 書くこともないのですが、当時佐川道場の月謝は千円(現在の1万円)でしたが、私が2段になったときから月謝は2千円、3段になったら3千円、4段になってから4千円を、先生に取っていただいて自分が勝手に納めていました。

 現在は太極拳の助手も大東流の助手でも、月謝は当然のように払ってくれません。月謝を払わないどころか、先生の助手をするのだから手当を貰うのが当たり前だと思っています。私が死ぬような病気になった時も当時の助手には手当を払っていたのですから、私が「合気の極意」が分かったときに教えるわけが無いのです。

 「損得」を考えずに先生に尽くしてくれる人だからこそ、極意を教える気持ちになるのです。先生というものは「教えたい人に教える」のです。だから合気錬体会では有満さん一人しか合気を教えていません。

 しかしせっかく合気が分かったので、「教えたい人」が多く出るようになって貰いたいと願っています。

平成17.7.21更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村先生質問状】−7              
「吉丸くんは体が大きかったが気は弱かった。自分より小さい座捕りで後輩に投げられられているんだからね。」

 このことについては「上げ手」というものを誤解しているし、1975年の時点では「座捕りで投げられる」ことについて、私が居た佐川道場にはそういう稽古をしたことはありません。

 しかし「体は大きかったが気は弱かった」に関して
1.想い出したこと。
2.武歴
 を書いてみます。2も長くなりますが、当時空手道場において「気が弱くて」総本部師範代が勤まるでしょうか、ということは後回しにして「想い出したこと」を書いてみます。

 この問題が始まってから『透明の力』を読み返してみましたが、「気が弱かった」ことに関連して想い出したことがありました。
 木村達雄先生には悪いのですが、『透明な力』の佐川先生が語っている挿話について思い違いしていることがあるのです。

 「鶴山晃瑞というのが『合気杖道』という本を持ってきた。」
 「鶴山が私の所へ来た時、時宗さんか久の所へ行けと帰してしまった」
というのは先生の思い違いなのです。

 なぜかというと鶴山氏は佐川幸義先生に会ったことは無いのです。

 まず『合気杖道』という成美堂の小型の本のことですが、それが出版されたとき、私はその内容を見て頭にきました。詳細は覚えていませんが「勝手に宗範などと言っている人もいる」というような内容で、佐川先生を無視しているような内容だったのです。

 ですから直ぐに鶴山氏に面会を求め、私は空手師範でもあり佐川幸義先生の門人でもあると名乗ってその非を責めました。ちょうどその時「合気道の大会」があってその会場で会いました。佐川幸義の門人で空手師範だというと流石に重圧を感じたようです。
 鶴山氏の体は肉がポッチャリとしていて、掌もパッチャリで、指が短かかったことを覚えています。


 私の名刺を出して鶴山氏に面会した。
 鶴山氏の名刺も貰ったのだが、身辺整理のため残念ながら紛失した。

 だから鶴山氏にはこの件で生涯に一回だけ会ったことがあります。















 なぜ『合気杖道』(合気道入門?)で佐川宗範を良く書かなかったのには理由がありました。鶴山氏は当時電電公社の労働組合の専従らしく、1日中電話は掛け放題だったようです。だから鶴山氏は全国に電話を掛けて大東流の取材をして、本を書いたということです。

 鶴山氏から佐川先生のところにも電話が何度かありました。その電話は大東流のことをしつこく聞くので、先生は「鶴山という男は1時間も2時間も電話を掛けてきて五月蠅い奴だ」と怒っていました。(本に載ると言えば、普通の先生なら喜んで話すのですが)先生のことですから多分いい加減な答えをしたのだと思います。だから鶴山氏は佐川先生のことを良くは書かなかったのです。(『合気杖道』を見ると分かります)

 吉丸はいい加減なことを言っているのだと思われるので、佐川先生が鶴山氏に会っていないことは思い違いだったことを私の日記により述べてみます。(私も歳をとると皆忘れてしまいましたが、日記を見て、鶴山氏に対して抗議に行ったことを想い出したのです。)

 また先生には鶴山氏に面会に行ったことを報告はしていません。先生が不快になる話題を避けるのが門人の心得だと思っています。

 「時宗さんと近藤昌之というのが来た時に」
 「時宗さんと近藤昌之というのが」たまたま来訪したのではありません。1974年10月21日に武田時宗先生が佐川幸義先生と「話し合い」をするために、門人を一人伴って来訪したした。その「会談」に立ち会うように佐川幸義先生から頼まれ、私が立会人となり記録をしたものです。

 『合気道の奥義』231ページに【来訪趣旨】【佐川幸義先生談】【武田時宗先生談】としておきましたが、実は外部に公開する必要もないので省いておいたものがありますので、1974年10月21日の日記をそのまま公開してみます。

昭和49.10.21 午後5時半−7時半
 武田時宗先生来訪、門弟一人立ち会い。 当方師と吉丸。

1.大東流合気武道総本部、総本部長の件
  久琢磨より総本部長になりたいとの要望があったが断り、本部長にした。以前の約束により総本部長は佐川先生の為に空席としているからである。宗範の名称は組織としては無いが、総本部長即宗範を名乗ってよい。

1.財団法人は内山氏が三十周年に時宗先生に持ち込んだものである。内山氏は笹川良一を知っているので(詩吟の関係)大東流がまとまれば基金を出す、というような話であった。その時は笹川を会長とし、宗家も理事として平等にやる。

1.鶴山の本の内容については直さなかった。大東流の宣伝のためになるという事で評価している。(成美堂、合気道入門)

1.久、堀川の腕は判っているが、後援者もある事だし、敵にしても邪魔だから味方にした。又、大東流として懸命にやっているので認めてやってほしい。(以上時宗宗家)

1.四ヶ条は上に上げるより下に抑える方が効く。下に抑えて捻り上げる。

1.久は免状、技は堀川、実力は佐川先生と常々話している。(時宗宗家)

1.剣道が古流から精髄を集め(これについては疑問大いにあり)型制定の時に各先生方は匕首を呑んで会議に臨んだそうだが、大東流もそのようにすれば正しく後世に伝えることが出来るのではないだろうか、という私案を持っている。又各先生方はその研究は独自に伝承してゆけばよいのではないか。(宗範)

1.鶴山が良く言っていない事も知っているし、本の中にも私の事を悪く書いている所もある。(宗範)

1.鶴山は久先生から教授代理を貰っているので、私の所には入門をしただけで段は出していない。ただあの本は三万部も売れ、それによって大東流を世間に知らせた点を認めている。(時宗宗家)

1.堀川先生も長年教育界に居てその後援者、支持者も多く「永世名人」という事になったのですが、それはそれでいゝじゃないですか。ただ先日の演武で、一寸肩を触っただけで、肩を一寸上げると倒れるとか、出した指先に触ったら倒されるので、あれは本当かどうかと論争が起きているが、一寸やりすぎだった。(時宗宗家)

1.田舎の駅で数人が待合室に居るような時、惣角が入ってゆくと何となく皆がそちらを見、又振り向いて見るというような不思議な雰囲気を持った人だった。

1.浦和の警察に行った時、あそこは高野佐三郎の土地で皆自信を持っていた。そこに指導に行った時、お前が行って来いと先に一人でやられた。二十才の時であった。詰襟を着て童顔だったので十六才くらいにしか見えず、青白かったので向こうで馬鹿にされ、お前では駄目だと言われ、散々武道の自慢話を聞かされた。そのあと四ヶ条で掴んでねじり上げた所、向こうは驚いて平伏してあやまった。その次の日、佐川先生も来て講習をした。その時惣角は柔道×段の大男を三ヶ条に掴んで「さぁ動け」と道場を一周されたが、その時あの小さい先生が実に大きく見え、二人で不思議だと話し合ったものである。(宗範・時宗宗家)


★吉丸慶雪の解説
 鶴山の本の内容については直さなかった。大東流の宣伝のためになるという事で評価している。(成美堂、合気道入門) (時宗宗家)
 
 「鶴山晃瑞というのが『合気杖道』という本を持ってきた」というのは思い違いです。
 常識的に考えて、佐川先生の悪口を書いている、あるいは無視している本を、自分から持っていくわけがないのです。現に佐川先生が「私の事を悪く書いている所もある」と話しています。

 それに鶴山という男が長電話を(本の取材のために)してきて失礼な奴だ、と道場で怒っていたのを私は見ていて佐川先生は鶴山氏に会ったことが無いことを知っていました。

 「なぜこんないいかげんな事を書かせるのだ、あんたの弟子だろうと言った所、」とありますが、武田時宗先生は入門しただけで段は出していないから「弟子と言っても形だけのもの」と弁解しているのです。

 しかし鶴山氏が大東流の歴史・現状を書くにおいて、佐川先生の取り上げ方は殆ど無視している、というより悪口を書いています。例えば一度は大東流の宗家を継いだことについても全く触れていません。それについて「いい加減なこと」と言っているのです。

 大東流は合気道に比べて殆どの人が知らなかったので、3万部も本が売れて大東流の宣伝になった時宗先生は喜んでいた、という時代でした。合気というものが話題になるのはず−っと後のことになります。

 そういうことで佐川先生は鶴山氏と会ってはなく、私は鶴山氏に会って話し合ったことがある、のです。ですから後輩をいじめることは出来ませんが、やる必要があればやる、ことが出来るのです。

 日記に「時宗先生と門弟一人」と書いたのは、ずっと後から考えて近藤勝之先生だったと考えたものです。なお、それよりずっと前に(10年くらい前)、細野先生が亡くなれ佐川道場に指導を頼みに門人が2人来たことがあります。しかし指導は断り北海道に行けと言ったのですが、それが近藤先生だったと考えられます。

★吉丸貞雄日記(有満庄司保管) 

昭和40年10月27日(水) 長田、小野、熊谷、奥村
 細野氏(吉田幸太郎弟子)の門弟二名見学 
     
1.逆手ということに重点を置き、合気を考えていない。合気道の方がむしろ大東流に近い。 
1.フランス人の紹介と見学者の入門は断る。主義として日本の伝統技を外人には教えない。

★吉丸慶雪の解説
 「細野氏の門弟2名見学」とあるのは、その一人が大学生だった記憶があり、それが後の近藤勝之先生であったと考えられます。(見学にきたのが1965.10.27で、時宗先生と会談したのが1974.10.21、奇しくも丁度9年前のことですね)

 その時の話では、四つ木の方(?)で教えていた細野先生が死去されたため、指導者を求めて佐川道場に来て、2名が見学したということでした。細野先生の教え方について、佐川先生が「合気道の方が大東流に近い」と後で講評したものです。

 私の印象では逆手ばかり教えている細野先生の癖が強かったので、指導したくなかったのだと思います。それで佐川先生は入門を断ったために、後の近藤勝之先生は武田時宗先生の方に師事することになったと考えています。聞いたところでは1年以上も座捕りをしている、ということを聞いた覚えがあります。

 内山氏というのは佐川幸義先生の弟子で内山八段、先生は総本部の弟子は奥伝四段しか出しませんが、支部では高段位を出していました。そして内山八段が来ると、私には「掴んで動かすな」と言って、総本部の実力は違う、というのが先生の癖だったのです。

 それから当時フランス大使館から指導の申し込みがあったのですが、これも断りました。

 「見学者の入門は断る」というのは「この時の見学者」だけのことであって、見学者をいつも断っていたわけではありません。
 例えばいつも郵便配達で来る若い子が見学に来て、直ぐに入門させたこともありました。日記を調べると勝沼入門とあるはずです。  

 なお10月27日の出席者は4名で、全員が日立中央研究所の所員です。


 ついでですから大東流の合気について述べておきます。

 「ただ先日の演武で、一寸肩を触っただけで、肩を一寸上げると倒れるとか、出した指先に触ったら倒されるので、あれは本当かどうかと論争が起きているが、一寸やりすぎだった。」(武田時宗宗家)

 つまり武田時宗先生が演武会の演技を見て、堀川幸道流の大東流合気柔術は、本来の大東流とは異質であった、と言われているわけです。しかしその後30年経って、現在では堀川流の大東流が違和感なく浸透しています。

 それには岡本正剛先生を筆頭として堀川幸道門下が、とくに岡本先生が上京して精力的にかつ惜しみなく合気技法を指導し、著書とかビデオを発表しているうちに、現在多くの人が考える大東流合気柔術のイメージは、堀川流が主体になってしまったようです。

 それでは私が知っていた大東流合気柔術の合気とはどういうであったか、それについては【吉丸慶雪合気談】に譲りますが、佐川先生は惣角先生の合気について次のように言っています。

1967.1.6 午後5時45分 恒例の新年ご挨拶 田口、井上定、若林
 「先師の場合は座敷の稽古であって道場ではないから転がす程度で、あまり派手に見えなかった、ということもある。」

 ここで何を言いたいのかというと、何でも「合気で投げる」のが理想であるとか、合気が実戦に使えるとか思わない方がよいのではないか、ということです。つまり現在では堀川流の、時宗先生がいうには「一寸やりすぎ」な大東流になっていて、何でも合気で投げるのが理想的だと思っている人が多すぎるのではないでしょうか。
 しかしどの会派にしても、時代の流れに対応して相互浸透が起きているのは、これは仕方がないことかもしれません。

【追加】 「気が弱い」ことについて追加します。確かに私は「優しい」ところがあって、武田惣角先生や佐川幸義先生のような教え方がどうしてもできません。初心者のうちにいじめておけば優位を保つことができるというのは世間ではよく聞くことであり、勝負の世界ではそれが同然なことです。佐川先生らしい遺伝子を持っている門人と言えば、小原君−相沢君あたりではないでしょうか。

【参考のために】佐川先生の「気力」の話は拙著『合気道の奥義』で整理しましたが、重複しているもあります。

1964.9.9(水) 小野、松田昌、長田、関、谷
 武術は円満ではいかぬ。私の若い頃は前に立つだけで恐ろしいと弟子が言った。他流試合では腕を折るくらいのつもりで技を掛ける。遠慮すれば自分がやられる。

1964.10.10(土) 大川、今井、松田
 教える時は最初に必ず効かせる。始めての時、力を入れる者や色々居るので油断は出来ない。腕の一本くらい折るくらいのつもりで掛ける。いたずらする者も多い。恐怖心を起こさせると二度目から素直に教わる。教える場合、最も注意すべき点である。

1964.11.18(水)
 中学生の頃、級友がたわむれて掛ってきたときなどこっぴどく叩きつけた。武術家は恐れられなければならない。始めから勝つこと。馬鹿にされると負ける。

1965.3.15(月)長田、松田
 技は馬鹿にされると掛からない。初めに恐れさせることが大事である。武田先生など「ニシャ力を入れてこい」と言っても誰も恐れて力を入れる者はなかった。たまに知らぬ者が力を入れて頑張るとひどく極めた。昔は一手一手必ず極め、投げ放しにしなかった。札幌の網元、浜野甚五郎が或る時後から首を締めて前に投げられ、腰を打って立てずに半年ほど掛かったが、そういうことをするからだと平然としていた。

1965.3.15(月) 長田、松田
 武田先生に試合を申し込むという様な者はなかったが、昔から試合という様な事はあまりあったものではない。相手の手の内が判らないので、実際は誰にしてもそう試合を申し込むということは出来なかった。道場破りでも始めは一手ご教授あづかりたいと言って、やりながら途中で頑張る。それで油断は出来ない。教えるときは充分注意して、恐れさせておくことが大切である。

1966.3.2(水) 高杉、小野、奥村、古川
 「気はやさしくて力持ち」ということは武術にはない。(これは吉丸に言っていること)

1966.4.14(木) 松田
 人間的にはおとなしいのもよいが、武術では困る。技が優れていても勝負になると結局どこかでごまかされてしまう。(中略)

1966.8.11(水) 高杉、小野、原口
 武田惣角先生は小さくもあったからか常に袴をはき、山高帽をかぶっていたが、人を見る目つきは物凄く不気味な感じで、習う者はとても力を入れたりする気持ちにはならなかった。それであのような小さい体で全国を廻ることが出来たのだと思う。
相手を先ず恐れさせる。何をされるか判らぬ、という気持ちにさせるのが教える者の先ず考えなければならぬ点で、下手の者にはその優位をずっと保たねばにらぬ。

1967.10.25(水)
 わしは稽古の時もし頑張るようなことがあれば直ちに腕でも折ってしまう、という気構えでやっている。その気力が武術では最も重要なことである。稽古で頑張れば折ってもよい。

1968.3.13(水) 星、坂の下、望月、勝沼、佐々木、陶山
 若いときの稽古では三十代の人などはわしを恐れて出て来なかった。反抗すれば腕の一本くらい折る覚悟で常に真剣勝負の気持ちで居る。どんな大きな者でも指をとってしまう。
弟子に少しでも反抗的な態度をとらせぬこと。生意気な弟子が出来るのは師が悪い。 

1971.8.6
 とにかく座って相手をにらみ回しているので、気の弱い者は話をするのも恐ろしがっていた。わしは子供の頃からなのでそれが普通と思っているので何ともなかった。惣角先生の回りには殺気ともいうものがみなぎっていた。

平成17.7.30更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村達雄先生質問状】7−2
 
 「体は大きかったが気は弱かった」については追加します。

 私が鶴山氏に面会をしたことについては書きましたが、なぜ鶴山氏は著書の中で佐川先生のことを悪く書いたのか、その理由をさらに述べておきます。私の記憶では鶴山氏は、合気会から武田流に変わり、さらに久派大東流に変わったと考えていましたが、確証がないのでその部分を省いておきました。

 しかし調べてもらったところ、私の記憶どおりでしたので改めて『透明な力』に関する事項を述べておきます。

 「鶴山晃瑞というのが『合気杖道』という本を持ってきた。久琢磨に習ったというが戦後私は久琢磨に会った事があるが、、、」

 私は鶴山氏の著書『合気道入門、成美堂』(日記のまま)を読んで、鶴山氏に面会を求め謝罪を求めたことは先に述べました。鶴山晃瑞というのが『合気状術』という本を持ってきた、というのは佐川先生の思い違いなのです。

 鶴山氏は最初は合気会××段でしたが、武田流中村派宗家・中村久先生に入門し電電公社の合気道部を武田流に移籍する条件で段位を高くし、さらに久琢磨先生に入門し電電の合気道部を移籍する条件でさらに高段位になったと聞いていました。(鶴山氏は佐藤金兵衛先生にも入門)

 鶴山氏は大東流免許皆伝の久琢磨先生に高段位をもらうことに成功しているので、別に佐川先生にゴマを摺る必要は全然なかったのです。ですから『合気杖道』という本を持ってきたとなっていますが、鶴山氏が宗範のことを悪く書いている本(成美堂、合気道入門)をわざわざ佐川先生の所に持っていくわけがないのです。

★(成美堂、合気道入門)となっているのは私の思い違いで、調べたところ、鶴山氏の著書は『図解コーチ合気道』48年版と思わます。なお同著は57年改訂版では相当変更されているというので、宗範に対して不利な記述は無いかもしれません。

 段位など考えずに佐川先生の技を習いたいなどという人は、私の居た14年の間、殆どいませんでした。昭和32年『合気之術』が出ていても(私も知りませんでしたが)師を求めて入門した人はいませんでした。松田隆智『謎の拳法を求めて』が出た時も佐川先生の名前が出たので入門者が増えると私は期待していましたが、入門したのは一人だけで、それが国分寺市の住人である堀内弁護士でした。

 今でこそマスコミで取り上げられて佐川道場は有名になりましたが、それまでは希代の名人である佐川先生を何故訪ねて来ないのか、不思議でした。(といっても私も国分寺の日立中央研究所に就職して偶然先生を知っただけですが。)
 
 そのように書いているうちに、先生の名声を聞いて入門した門人を一人思い当たりました。多分それは昭和31年発行の『合気之術』立山一郎著(真実社)に大東流合気術36代宗範として紹介されたもので、それを読んで岡崎から習いに来た高校生が松田証さんだったと思われます。そうすると田口さんは昭和33年の入門ですから、松田証さん(松田隆智先生)はそれより2年より早く佐川道場に入門したのではないのでしょうか。

 とすると【木村先生質問状】−4 「吉丸くんと田口くんが対立していたことは知っていたが、放っておいたのだ」に書いてありますが、私の不注意のために古い友人を失ったことはくれぐれも残念でした。

★吉丸貞雄日記 
 【昭和44.11.28】本日より松田証修行。十二月四日まで。
 【昭和45.4.1(水)−4.9(木)】松田証 【三元】

★私の推理
 『透明な力』で「鶴山晃瑞というものが来た」というのが本当なら、本を持って来たのではなく、昭和49年10月21日、武田時宗先生と佐川先生との話し合いの中で、時宗先生は「久琢磨より総本部長になりたいとの要望があったが断り、本部長にした。以前の約束により総本部長は佐川先生の為に空席としているからである。」と言われましたが、佐川先生は総本部長就任の要請を断ったので、その後に久琢磨先生の使者として鶴山氏は会いにきたという可能性はあります。

平成17.9.25更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村達雄先生質問状】8            17.10.04

 
「体は大きかったが気は弱かった」についてはまだ続けます。

 これは「体は大きく気は優しかった」と言ってもらいたいところです。武術家は「気は優しくて力持ち」では駄目だ、などと佐川先生に言われていましたが、それは確かにその通りです。

 佐川先生は囲碁・将棋などの勝負事を一度もしたことがありません。先生は「私は負けると悔しいから勝負事はしないのだ」と常々言われていたとおりです。一方私はご子息の敬行様に囲碁を教えてもらっていて、お陰で初段くらいの実力になりましたが、囲碁に負けても全然カッカとはしない性質でした。

 それで「気は弱かった」については、私の武歴を述べることにしました。 

 私は大分県佐伯町で酒類卸店を営んでいる吉丸家の長男として生まれました。父は、祖父の家業を手伝うと同時に県立佐伯中学校の剣道師範を務めてしました。父は佐川先生と同年の生まれです。そこで私は父が30才の時の子供になります。

  

 父が剣道に打ち込んだのはやはり吉丸家の遺伝子かもしれません。

 吉丸家の出身は伊予の国、宮窪にある能島は瀬戸内の村川水軍の一門、能島水軍の館があった所です。母の旧姓は村上ですから、村上水軍の末裔かもと空想していたものです。

【館報みやくぼ−宮窪ところどころ(94)】を引用します。


吉丸家のこと 矢野勝明
 海南寺裏の墓地に久岳良長信士、逆修菩薩と刻んだ吉丸家の先祖の墓がある。やく三百年前の元禄二年とあるから十一、二代前の人、町内吉丸家の祖で片山の吉丸ツユさんが祭っている。(中略)当主貞雄氏から五代前の富治さんは素人相撲で近在にない手取りであった。浜千鳥を名乗り体格も非常によく、素早い相撲で人気を集めた。

 ある時今治へ玄人相撲が巡業し、素人の飛び入り許すというので、地方相撲の力だめしともなり、見物を兼ねて大勢集まった。相撲は十日間もあったという。飛び入りを申し込んだ富治さんは初日下の力士と組まされ力を入れるまもなく勝ち進み、日を経て十両を倒すようになった。今でこそ幕内、十両共に二十人余であるが昔はその半分の人数である。
十両が崩れたら幕内に近づき、玄人の面目にかかわる。但し観客は浜千鳥の強さに目を見張り、声援しきりであった。
 
とろこが協会は浜千鳥の出場を中止させた。観衆は之を聞いて承知しない。「強いから出場禁止とは何事ぞ、相撲は土俵が勝負」と野次がしきりに飛ぶ。ところが、行事土俵を清めて拍子木を打たせ、観衆に一礼して「浜千鳥関の出場を止めた理由を申し上げます。浜千鳥関の相撲は非常に早いので皆様にはわかり難いが禁止技逆の手を使用しますので、力士に怪我人が出ては大変であり、出場禁止を決定致しました。相撲道御ひいきの皆様方ご了解の程伏してお願い奉ります。」と頭をさげた。こうなれば相撲道のため如何ともし難く、観衆もおさまらざるを得なかったそうである。

 また次の代の勇吉さんも相撲浜千鳥を名乗って相撲を取り、なかなか強力だったという。今治の小幡屋の酒造杜氏を勤め、各地の素人相撲に出て沢山の花をかき集めたという。
 ある時四斗樽に酒を詰めたものと、空樽と両手に提げて見せ、どちらが酒入りか空樽かと言うに、少しも区別がつかなかったと言い伝えられている。何程の力持ちかを伺う事が出きる。富治さん勇吉さん二代の相撲一家は相撲の花だけためても相当な財産だと評判された程であった。(略)

 次の代の貞治さんは大分県佐伯に酒屋をやり、産をなしたがその子文逸氏は剣道の達人佐伯旧制中学の剣道師範を勤め、大正の全国名剣士録に名を留めているが惜しくも早逝された。

 そういうことで私は幼少のころから剣道具を担いで道場に通いました。父に仕込まれたのは「小手打ち」です。
 小学6年のとき体を鍛えるために、父が頼み込んで相撲部に入られました。相撲もやってみると結構面白かったのですが、それでも背が高くてヒョロヒョロのままでした。

 中学校に入ると私は「弓道部」を希望したしたのですが、弓道など女のやるものだと言って当然「剣道部」に入らされました。中学校は剣道・柔道は正課でしたが、柔道はまだそれほど関心はありませんでした。戦時中ですから2年生のころには、剣道部では切り込みのために「袈裟懸け」の訓練が行われていました。それが後に佐川先生に習った剣の極意が全く同じものであって、古流の剣が残っていたことに感動したものです。

 中学3年生のときに終戦、父が亡くなったので故郷に帰り、今治西高校では寄宿舎生活でしたが、日曜日や夏休みに家に帰ると近所に住んでいた矢野義弘先生が手を取ってコツを教えてくれたものです。矢野義弘先生は元愛媛県警の警官で、愛媛の小天狗と言われた講道館6段の達人でした。

 寄宿舎の舎監は柔道の先生だったので、私は2年生から3年生まで今治警察署の柔道場に通うのを大目に見て貰い、お陰で警察署の初段にはなり(GHQ指令で武道を禁止され警察署しか武道が出来なかった時代です)、上京したら講道館に通う予定でした。ところがそのころ「姿三四郎」とか「残波岬の決闘」など空手の映画が流行していたので予定を変更、昭和25年に上京して直ぐに空手の道場を探しましたが、民間の道場は殆ど無かったと思います。

 上京して程なく目黒の遠山寛賢先生に入会することが出来ました。しかし戦後のことで遠山道場はあったものの指導時間が不定期だったので、遠山道場の師範代であった伊藤先生(当時青山大学空手師範)が気の毒に思って、青学空手部で練習できるように計らってくれたものです。

 そのころ少年雑誌にサンチン瓶を持っている写真が出ました。それで川崎に居るらしい空手の先生を探し、交番で聞くと、東芝には8段の偉い先生がいるからそちらに行けば、と薦められたのですが縁は無く、再度川崎を尋ね歩き、ついに泉川寛喜先生を訪ね当てました。戦後のことで家はまだみんなバラック同然でしたが、小さい道場がありました。

 それが沖縄伝統の剛柔流師範との出会いになり、「剛柔」とは何かという疑問から始まり、最後に「合気」とは何かを解明する機縁になります。ちなみにヤマトに剛柔流をもたらしたのは沖縄県出身の学生であり、剛柔流の正式師範がヤマトに来たのは泉川寛喜先生が始めでした。

  東恩納寛量−宮城長順−比嘉世幸−泉川寛喜−(4段吉丸貞雄) 

 3年の船員生活ののち、泉川先生の好意で泉武館の道場に住み込み、1年間は失業保険で空手三昧の暮らしをおくり、その後近くの会社に勤めてその後2年間ほど泉武館師範代を務めます。当時の支部長は次のようで、その後それぞれ会派を立ち上げて独立し発展することになります。

 剛柔流空手道泉武館総本部
 総本部師範代  吉丸貞雄 4段
 台東支部長   市川素水 5段  日本剛柔流空手道
 横浜支部長   赤嶺松助 5段  琉球古武術宗家
 大田支部長   高頭 勉  5段  会派不明
 杉並支部長   荒川武彦 5段(後6段)宗幹流双節棍道宗家 荒川武仙 
 ブラジル     相良寿一 3段  A猪木実兄、バウリスタ空手連盟会長

 空手師範代時代、新橋にある料亭那覇亭の息子で、小林流空手の天才児と言われた上江洲安健と友達になり、1年間一緒に「ククチ」の練習をしたことがあります。そのころ東恩納盛夫君(現在は世界的に有名な東恩納盛夫先生)は沖縄から上京して大学に入学したところで、大学の学園祭で一緒に演武をしたこともありました。

 その「ククチ」というのは小林流空手の一種の発勁で腰を使うのが特徴ですが、上江洲安健とククチの練習を1年間やったお陰で、技を掛ける時に腰を振る悪い癖ができたのです。後で佐川幸義先生に入門したとき、先生はただ単に「悪い」と言うだけで、どこが悪いとは教えないのです。佐川先生には3年間「悪い」と言われ続けました。先生がもう諦めたのか直ったのかそれは分かりませんが、「悪い」と言われなくなるには3年掛かりました。私の感じでは悪い癖を直すのに5年くらい掛かったと思います。

 空手の天才児上江洲安健は(彼は夭折)沖縄空手の名人・知花朝信先生の免状3段が欲しいと頼みましたが貰えず(彼は比嘉佑直門人)、私の義弟である仲間文雄は知花朝信先生の直弟子なので、知花先生が私に5段の免状を出すと言ってくれたのですが、私はすでに佐川幸義先生に師事していたため知花先生の免状は断わってしまいました。今から30年前の知花先生の5段免状は大変な価値があったのです。(今なら黙って免状を貰っておくところですが、ここが馬鹿正直なところです。)

 当時琉球古武術平信賢先生が来られ泉武館で講習会をしたことがあります。私は信賢爺さんと言っていましたが(20才台の私は爺さんと思っていましたが、現在の私よりずっと若かったのです)、日本空手協会にお供で行ったときは協会の大先生たちは子供扱いでした。信賢爺さんは若いころ船越義珍先生が沖縄県の寮で舎監をしていたとき、一緒に住んで助手を務めていた先生です。それから神道自然流小西庚祐先生のところにもお供で行きましたが名札を見て井上元勝は私の弟子で××段だということを言っていました。

 日本空手道糸東流総本部の坂上隆祥先生は空手の型を全部伝承している先生ですが、私は鶴見の坂上道場の二階の小さい部屋で信賢爺さんと一緒に泊まり、坂上先生、中村先生(?)、それと私の3人で琉球棒術を習いました。その時はまだ近くの会社に勤めていて、坂上道場から会社に行き夜は坂上道場で棒術を習うという生活でした。


                 荒川武仙 吉丸貞雄 (泉川道場)
 屋比久猛伝−平信賢− 坂上隆祥 中村(?) 吉丸貞雄 (坂上道場)
                 井上元勝 (静岡)

  




















 昭和33年か34年、坂上道場に泊まり込み平信賢先生に棒術を習う。

 平信賢先生は古武術の写真を沢山持っていて、本を出版したいというので、私がコネを探して講談社の子会社に話を持ち込んだのですが、その時はまだ時期早々で出版は出来ませんでした。そのため平信賢先生は静岡に行って、井上元勝先生に写真を全部渡し、琉球古武術を伝えた、と言っていました。

 のちに荒川武仙は宗幹流双節棍道を立ち上げ、井上元勝先生は琉球古武術保存振興会を立ち上げています。 

 師範代時代泉川寛喜先生のお供をして剛柔会初代会長の山口剛玄先生と二、三度お会いしたことがありました。佐川道場を辞めてから骨法の堀辺正史先生と一緒に明治神宮崇敬会に出席したことがあります。ちょうど山口剛玄先生とお会いしたので、泉川寛喜の門人であると挨拶したら喜んで後日山口先生のお宅に招待されたのです。山口先生のお宅には大きいピラミッドの枠があって、ピラミッドパワーの中で瞑想をするのだと言われていました。

 ということで私は十分な空手のキャリアを積んでいたわけです。だからそのまま川崎に住んでいたら、空手界での仕事に熱中する一生を送っていたと思います。しかし私が日立製作所に就職したことを縁として、私の運命は変ってしまった、というよりそれは私の必然的な運命だっのです。

 そのころ日本では高度成長の始まりで一流企業では技術者が足りなくなり、私も日立製作所の求人に応募しました。面接では「航用機器の開発」なら大丈夫と思ってそのまま合格したのですが、日立中央研究所に赴任するとそれは「工業機器の開発」であって面食らったものです。

 日立中央研究所は国分寺にあります。そのころは覚え立ての平信賢先生の棒術に熱中していたので、ズウズウしくも近所の空手道場に行って、道場を使わせてほしいと言うと(そういう非常識なことも平気でしました)、小枝指先生は親切に道場を使わせてくれたのです。これも気が弱いどころではなく(どうも拘っていますが)空手の先生に琉球棒術を教えてあげる、と自信満々だったのです。(その後小枝指先生は多摩空手界の大御所となっています。)

         

   日立中央研究所 屋上昼休みにて 昭和36年

 このように泉川寛喜先生の縁から平信賢先生に琉球古武道を習い、日立製作所に就職して国分寺に住むようになって棒術練習のために近所の空手道場を訪ねて(別に空き地で人知れずやっていればよいのですが、要するに自信満々で自慢したかったのです)小枝指先生の縁から、佐川幸義先生に会うことになります。

 空手道場の小枝指先生が、「私が畑に行くといつもお爺さんが居て、『お前は空手をやっているのか、わしが武術を教えてやる』と言うのですよ」と言うのです。私は前の泉武館時代に八光流をやっているお爺さんが来て(20代の私にはお爺さんと思ったのです)興味を持って逆手を掛けて貰ったら全然効かないので、柔術は駄目だと思っていたのです。

 しかし柔術には興味があったので、日立の若い者を連れて「若い者を入門させたい」という口実で見学に行ったのです。すると佐川先生は椅子に私を掛けさせて、親切に説明してくれました。説明のとき軽く手首を掴んで逆を掛けると「痛い」と心の中で思い、これは面白いと直ぐに自分が入門してしまったのです。今から考えると二ヶ条でした。

 それからは今度は空手界から完全に離れて15年間、週に3−4日殆ど欠席もせず佐川幸義先生の教えを受けたわけです。日立中央研究所は国分寺にあり、佐川道場は歩いて20分くらいなので、会社と道場を往復するだけの生活でした。

 さておとなしい私も人並みに喧嘩をしたことがあって、それらを書こうとしたのですが、くだらないので省略します。私の空手は平和の時代の素人相手の喧嘩に過ぎないものであって、武術に名人にでもならない限り、刃物を持たれたら危ないものでした。

 現に『透明な力』に、「吉田氏はその時、湯川勉(異常に力の強かった植芝門下として有名)に「押さえてみろ」と言って押さえさせたら動けなかった。」とありますが、その異常に強い柔道家であった湯川氏でもあっけなく刃物で殺されています。

【佐川幸義先生聞き書き】昭和48.11.6

 「吉田幸太郎はオッチョコチョイで、植芝の道場に行った時、弟子の湯川というのに手を持たせて動けなかった。後で植芝が話していた。
 湯川は植芝の一番弟子だったが、後日大阪で短刀で刺されて死んだ。」

 また関西の少×寺拳法の大幹部は、素人に短刀で刺されて死にました(相当前に新聞に出ました)。なまじっか空手に自信があったために、空手2段の女の子が山中で絞め殺された事件が新聞に載ったこともあります

 しかし印象に残った私の喧嘩は二度あります。

 佐川道場に入門したころ、私が感心するくらい上手な中島さんという先輩がいました。
多分わずか年上だったと思います。中島さんと私は友達になり、五・六人の武術仲間の取り巻きが出来て、立川の仲間の家で武術談義をしていました。帰り道に立川の駅に向かう途中、その若者たちは武術談義で気が大きくなっていますから、その辺でたむろしている者を蹴散らして歩いていました(中島さんと私は後の方で話をしながら歩いていました)。すると完全に切れていて血相をかえた男が、「この野郎」と包丁を振り回してきたのです。

 しかし若者たちは、空手4段の私と大東流有段者の中島さんがいるのだから、簡単に包丁を取り上げて倒すものと思って期待して見ていたのですが、私も中島さんも完全に頭にきている男を見てこれはヤバイと二人とも逃げてしったのです。それから若者たちの信用はなくなってしまって、その集まりは霧散してしまった、というのがお粗末な結末でした。

 質問状のことで中島さんのことを想い出したのですが、私が入門してから少しして、佐川先生は中島さんをたしか奥伝四段(私の記憶で)にして門人帖を渡し、独立させたのです。この理由は私には分かりません。門人帖を渡すということは、門人を取る場合その帳面に署名させ、入門料は総本部に納入するということです。

 今度のことで改めて考えてみると、熱心に出席した私でも中伝3段になるには6年掛かっていますから、中島さんは高くても中伝3段になったばかりであったか、そうするとなんと中島さんの入門は昭和30年で、それは佐川先生が道場を始めた年になります。(田口昭和33年、吉丸36年入門)

 つまり中島さんは佐川道場の最初の道場生だったのではないか思われます(それまでは講習だけ、北海道支部には出張指導)。佐川先生が道場を始めてから6年間の初期の教科については興味のあることで、ぜひ今一度お会いしたいと思っています。

★初期の佐川道場には近所の高校生が来ていて、合気拳法を教えたと先生は言っていました。

 二回目の危機というのは、自分が危なかったのではなく、人に危害を及ぼしたものです。丁度山×線のなかで二人連れに絡まれたことがあり、新×駅で前後を挟まれ改札を出て広場に行きました。そのとき佐門会があり時間に間に合わなくなるのであせっていました。
 そこで振り向くといきなり後ろの男に底突きを入れ、そのまま振り向くと(前にいた男が振り向いて唖然とした顔をしていました)両拳突きで顔と腹を同時に突くと(私の得意技はスーパーリンペで)、本当にクルッと廻って倒れるのを体験しました。それからは余分なことをしてしまったのですが、片膝を着いて水月を肘当てしたのです。そのときは格好よく我ながらほれぼれするように形を決め、そのまま地下鉄の階段に行って様子をみて、それから急いで佐門会に出たのです。多分1分くらいで終わり、他の人には何が起きたか判らなかったと思います。

 しかしそれから倒れた者を更に水月を縦猿臂で当てたのが心配になって、新×駅で殺人事件がなかったのか、毎日調べていました。今考えると殺すほどの威力はなかったと思いますが、私なりに真剣に心配したもので数年間は現場には行かないように用心していました。

 ということで「気が弱かった」のではなく「気が優しい」と思っています。しかし格闘家としての闘争心などは全然ありませんから、武田惣角先生から佐川幸義先生へと伝えられた二代の名人芸は、私には無縁のものです。

 『合気道の奥義』第3部第1章第1節「武術と気力」で次のように書きました。

 「佐川幸義先生の合気武術はまず実戦の格闘武術を目的としていて、気力の修練が第一に強調されているもので、また気力が万人に優れた点が先生を武術の名人とした最大の理由であるが、合気錬体会では修行者が互いに協調して技術の向上を図るようにするため、あえてその点を強調しないことにしている。

 つまり私は、佐川幸義先生は「合気の名人」であるより、先ず「武術の名人」である、と考えるものであり、大半の人たちには無縁のものと考えています。

平成17.10.4更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村達雄先生質問状】−9    

 これで座捕りの問題に入ります。
「自分より小さい座捕りで後輩に投げられられてんだからね。」

については、1976年以前の佐川道場の稽古法と、それ以後の佐川道場のそれとでは違っているということを述べたいと思います。

 私が入門したのは、門人帖によると昭和36年10月25日です。佐川道場では免状を戴くときに毛筆で門人帖を記入します。たまたま目録二段を戴いたときの門人帖のメモがありましたので、参考のために記載してみます。


 誓約書       
  私は小平市上水南町四八九において大東流合気武術宗範佐川幸義先生について、、、、、、、
  39年9月23日より11月29日 三元12回
  38年6月より8月  二元12回
  右を含め
  38年6月1日より40年10月30日 499回
  36年10月25日より通算    723日
  、、、、ご指導を戴きました。

  今般目録二段相受候に就いては左記の條々堅く相守る事此段起誓候也。
        記
  1.交他流一流相立申間敷候事
  1.無許可本流教授無用之事

  1.×××××

   昭和四十年十月吉日
                                    吉丸貞雄 印

 この回数は門人帖に記入するために先生が記録しているもので、二元を習い始めた昭和38年6月1日からは出席が多くなり、目録二段を頂いた昭和40年10月30日までの平均出席数は1ヶ月18回(土曜日午前・夜で2回)になっています。

 こうして私が入門したのは先生が60才で私が30才、道場を退去したのは先生が75才で私が45才の15年間、ほとんど道場を休んだことはありません。とくに昭和49年の1年間は日立中央研究所を退職して殆ど毎日朝夕、家族同様に出入りしていました。

 『透明な力』に佐川先生の言葉として「私は70歳の頃になって一瞬で飛ばしてしまう新しい合気を発見した。」とありますが、その頃に受けを取っていたのは私しか居ないのですが、、、、、

 私の出席数が2千回くらいになったころ先生は「ただ出席数が多ければ良いというものではない、私など総角先生には通算4年くらいしか習ってないよ」と言われたものです。通算4年くらいと言うと千五百日くらいでしょうか。

佐川派大東流合気武術
 昭和42年の6月ころ佐川幸義先生は佐川派を名乗る旨を私に話していましたが、昭和42年11月の中伝三段の免状では佐川派という印章を作って押印していました。しかし昭和47年5月の上伝準四段の免状では佐川派の印章は押していませんから、佐川派の名乗りは意識的に止めてしまったことになります。 

昭和42(1967) 8.7(月) 勝沼入門
 6月頃より、大東流佐川派を称せられる。派というのは原流をさらに一段と飛躍させたものである。佐川派は武田先生の技を実技理論ともに最高のものに完成したものである。

★「派というのは源流を云々」というのは佐川先生の発言です。若い頃には「新大東流」などと考えたこともあるなどと話したこともあります。




   吉丸慶雪日誌
   昭和42年8月7日 (月)
   
   勝沼入門
   六月頃より、
   大東流佐川派を称せられる。
   派というのは、原流を更に一段と飛やくしたものである。
   佐川派は武田先生の技を、実技、理論共に最高のものに完成したものである。






















   昭和42年11月吉日
   佐川派の印が押された免状

   佐川派大東流合氣武術總本部
   宗範  佐川幸義


























   昭和47年5月吉日
   佐川派の印が押されていない免状

   大東流合氣武術總本部
   宗範  佐川幸義

























 私は佐川先生に対して誓約していますので交他流一流相立申間敷候事、つまり「他流を交えて一流を作らないこと」を守る信義があります。そこで佐川先生の手、山本−佐藤先生伝の手、植芝-佐藤先生伝の手、その他を混ぜて一流を創作することはしてはならないのです。

 そのため合気錬体会で教えるときには佐川先生の手であることを明らかにしています。無許可本流教授無用之事については『合気道の奥義』で二元を公開しましたが、これは許容範囲と考えています。
 三元以上は(体系的に)道義的に絶対に公開するつもりはありません。(三ヶ条、四ヶ条、五ヶ条など個々の技は別です)

 また山本−佐藤伝大東流は大東流合気柔術秘伝奥義技であるため、合気錬体会の教程から外しています。

 そういうことで正式には佐川派大東流は昭和42年から長くても昭和47年までの5年間ですが、私がご指導頂いていた昭和36年から昭和51年までの15年間に関しては佐川派とし、それ以後の佐川道場の技法と区別することにしています。

 それというのも、佐川道場の経験者で私の所に訪ねて来る人がよくいるのですが、話を聞いてみると私の体験していた佐川道場の教え方とどうも違っている、と思って見ています。その変化にはそれなりの理由があるのですが、これは変化しているということに留めておきます。なお先生も昭和51年現在の時点で、その理由は了知していました。
  
 佐川幸義先生の佐川派大東流の教程は最初が「振り解きならびに当て技」(つまり体捌き)で2ヶ月、それから座捕りが1ヶ月でそれから立ち技に入ります。この「振り解き並びに当て技」は後にそれを省きました。それから後に、座捕り締め技5手は一元から省き二元に入れました。

 そこで佐川派の教程では、最初は「座捕り合気投−正面打−顔面直突−横打−」と順番に教えます。だから座捕りの合気投(上げ手)は約5分間くらいで次に正面打と進めます。ですから10分も上げ手を研究するなどしなかったものです。

 上げ手は一応「合気投」という名称ですが、上げると左方にあるいは右方にバランスを崩して転がすだけであり、投げることはしていません。しかし座捕りの「合気投」を投げるというイメージで捉えるなら、これは見方が変化したのだな、としか思えません。

 それから立ち技に入り、最初は両手捕上げ手、それから正面打−顔面直突−横打−と進めます。立技での「上げ手」では投げることはしません。なぜなら上げ手から合気で投げるのは八元になってしまうからです。

 とにかく座捕り上げ手では、力一杯に持った相手を持ち上げる、という稽古ではないのですが、それが「力一杯に掴んだ小手を持ち上げる」という稽古に変化したのは相当後のことだと思います。
 確かに先生は「わしは17.8才の頃にはどんな力を入れた者を持ち上げることが出来た」「父と一緒に研究したので上げることができるようになった」と話していましたが、それは自宅で研究した話であって、道場でそんな稽古をさせるわけがないのです。

 理論的に考えるなら、座捕り上げ手は最初に教える(手解き−振り解き−座捕り)技法である、つまり初心者に入門として教えるのですから、そもそも初心者には出来るわけがないのです。だから「肘から先に力を集中する」感覚を教えるのが先輩の勤めであり、投げてみせても初心者はリキムことしかできないのです。

 剛柔流空手道でも三戦(サンチン・勁力の養成法)でも、初心者にやらせれば必ず力んでしまのが当たり前です。だから勁の感覚を教えるのが指導者の役目になります。ところがサンチンが奥義である、だからサンチンを一生懸命にやれと強調し過ぎると、初心者にとっては有害になります。(現在、空手界では初段の昇段試験にサンチンが出てきますが、それではリキム癖が付いてしまいます)

 そこで「自分より小さい座捕りで後輩に投げられられてんだからね。」ということについては、自分が弱いと思われようが、誰かに投げられたとか、そんなことはつまらない、どうでも良いと考えている人間です。(プロを目指す人とか名人になりたいという人は別、、、??)

 しかし「上げ手」の稽古が「上げる」とか「投げる」とかが目的であると思いこんでいる人があるなら、やはり「手は上がらなくても良いんだよ。お互いに協力してバランスを崩す練習をするのが大事だよ。」と注意したいと思います。

 上げ手について佐川先生の言葉があります。それには「上げ手」をやるのでリキム癖ができるので上げ手をやらせない方が良いかもしれない、とも言っています。

1964.9.21(月) 高杉、小野、長田、松田
 夜の弟子が力む癖があるのは「上げ手」をやるからかもしれぬ。初めは「上げ手」をやらせない方がよいかも知れぬ。受けは強くなるが攻撃が下手になる。 佐川師評。

 しかし本当のことを言うと、「自分より小さい座捕りで後輩に投げられられてんだからね。」という本当の意味は私には良く分かっているのです。
 つまり私は後輩に教えるときに自分から転んでやることがありました。先生は後輩にいちいち転んでやることは無い、と言っているのです

 先生はいつも私に対して「細かい説明などしなくてよい」「三段にもなればいちいち掛かってやることはない」と注意されていました。つまり私の悪い所は、後輩に親切に教え過ぎることで、それでは「強いと思われないよ」というのですが、それが私には出来ない性質なのです。

 現在分かってみると、「合気」が出来ない限り上げ手でも他の技でも絶対に掛かりません。それが出来ると錯覚するのは、上下関係とかがあるためで、本当に頑張ると技は絶対に掛かりません。
 ですから合気が無い場合は、いくら力を鍛錬しても技は掛からないのです。そして合気を修得するには弛緩力(正確には伸筋制御運動)を会得することが必要なのであり(つまり合気之錬体になる)、上げ手を持ち上げる目的でやっていれば力の訓練にしかならないのです。

 しかしそれは理屈であって、先生は強い指導者になってもらいたいと望んでいたわけです。

 日立中研で空手を教えていたS山君を入門させたとき、座捕り上げ手で彼が頑張ったので先生が怒ったことがあります。私も散々に怒られて彼を辞めさせたことがありました。彼は悪気の無い人だったのですが、夢中になって力を入れてしまったのです。

【吉丸日誌】

1965.12.1(水) 吉丸、長田、千葉、伊藤、S山、松丸入門
  (日立中研S山を入門させる。入門2名)

1966.2.2(水) 吉丸、沓沢、奥村、S山
  S山座捕上げ手で宗範に頑張り抑えられ「習いに来ているのか、何しに来ているのか、 止めろ」と怒られる。帰り道、止めるように言い渡す。

1966.2.3(木) 吉丸、高杉、小野、長田
  S山について人を見る目が無いと宗範に叱られる。人相が悪い、普通ではない、と。 昨日は座捕上げ手に対し手を外したので四元で抑えたとのこと。それくらいは大したことはないが、先日来の先輩に対する態度が非常に悪かった、と。馬鹿力で頑張るので自分も前から腹が立っていたが、はっきり抑えられる様でなければ駄目だ。

1966.2.7(月)
  S山について君が一番悪いとご注意される。人を抑える精神力が最も大切である。土曜日にあやまりに来たので奥の手で大東流というものを見せたとのこと。頑張れば直ちにそれに乗って叩きつける。決して許さぬ。


 1週間くらいは先生に散々怒られたのですが、2月17日にはこういう話をしてくれました。 

1966年2月17日(木) 高杉、長田、小野
 道場の練習だけでは使い物にならない。誰でもつかまえて試してみるということをしていると精神力が養成される。試すときは必ずこの手で倒すという信念で精神を集中して行う事が重要だ。その様な精神統一の積み重ねで強く使えるようになってくる。技をいくら練習しても駄目だ。
 しかしまた技も重要で、先ず体が出来ることが必要だ。そのためにはただ練習を数やることもよい。つまり技を考えていても上達しない。

 わしなど連絡船で指のこんなに太い船大工という人が居たら、力が強そうだが持ってみてくれと持たせて抑えたり、こちらが持って抑え、また袖を掴ませて抑えたり、家に土方が来れば穴の中に投げ込んだりと色々したものだ。汽車の中でも所構わずだった。今の五元くらいまでの手は十八才くらいまでに終わっていた。

 そのころ突き蹴りはとても速かった。そしてそれを基本にして拳法を考案した。拳法は初伝・中伝・奥伝とし、初伝は通常の突き蹴り、中伝では腹を突かれたとき等、奥伝で戦いの駆け引きとしてある。 師談。


 ということで、先生には貴重な教育して頂いたのですが、物にならなかったわけです。しかし希代な武術の名人に触れた体験を生かして、体技の技法を分析し、万人が論理的に体技を体得できる体系を志向しているものです。

 名人が輩出した時代は終わりました。現代では、効率的に平均的なレベルを上げることが求められていると私は考えています。

平成17.10.4更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村先生質問状】−9    
「家内が病気のとき背中に負ぶってくれたりいろいろ、、、、」

 どこの先生にしても、弟子に話したくない都合の悪いこともあるのだから、止めた門人のことを話題にならないように気配りするのが弟子の心得というものですが、どうもそうでない雰囲気があったようです。

 当然、先生は都合の悪いことは隠して「吉丸というのは、、、」と話すしかないのですが、先生にそういうことを言わせるようにし向けた心のない弟子が悪いと考えています。

 職を投げうって師のために尽くしたという美談調の話、、、、、といえば嘘ですが、偶然、結果的にそうなったのは事実です。昭和48年、日立中央研究所の副参事に任用されたそれを機として、仕事に全力投球するのか趣味に生きるかを考えて、結局趣味を選んで日立中央研究所を退職することにしたのが昭和49年初頭のことです。

 ちょうどその頃、先生の奥様が病気になりました。木村先生の質問に答えるために資料を整理していると、私の義弟に出した手紙の控えがありましたので、それを載せることにしました。それにより当時の事情がよく分かると思います。


「仲間文雄殿 (義弟は沖縄出身、知花朝信先生の直弟子)
拝啓
 無事退院され、おめでとうごさいます。退院できたからには後の養生さえ上手にやれば、もう大丈夫です。参考の為に本を二冊お送りしますので、研究して下さい。
 『ガンのなおる第五の療法』は、約10年前、佐川先生の奥様が胃ガンになった時のものです。48年でしたか11月頃に、あまりに胃が痛むというので検査するともう末期の胃ガンでした。医者は直ぐに切ると言ったのですが、切っても駄目だという意見が多く、(僕も山室先生の方から聞いて貰いましたが)喧嘩するようにして退院させ、丸山ワクチンを使うことにしました。丸山ワクチンは僕と先生と二人で貰いに行きました。行く度に沢山の人がワクチンを貰いに来ていました。しかしその間も胃の痛みは続いていました。

 49年の3月頃、僕が古本屋『ガン治療に残された道』というのを見付け、藤田正直先生に電話したところ、先生は引退してもう患者を引き受けないと言うことでしたが、強引に頼み込んで診て貰う事が出来ました。
 その結果、5月頃には痛みも全く無くなり、本人も病気のような気がしないと言うくらいにまでなりました。ところがそこで失敗したのです。それは、調子が良くなってきたので、(藤田)先生のいうことを守らず、勝手なことをやり始めたのです。

 まず、非常にやせてきました。それで玄米食(一日に小さい茶碗軽く二杯)では栄養が足りなくなるといって、栄養をこっそり摂りました。もともと金持ちなので、玄米・菜食・小食に耐え切れなかったのです。だから胃の調子が良くなるとスキヤキも食べました。さすがにその時は胃が猛烈に痛み出し、あわてて藤田先生に連絡し、こんこんと説教されました。しかしスッポンは栄養がつくからと僕も買いに行ったものです。

 そういうふうにして、胃の調子が段々良くなるにつけ、藤田先生のところに行かなくなり、自己流で色々やりだしたのです。(そんなに×の高い医者は信用出来ん、と言いだし、苦しい時はいくら払ってもという気持ちだったのが、良くなってくると、×を払うのが馬鹿馬鹿しいとなったわけです。)

 実際には痩せていてそれで良かったのです。しかし×のことで不信感を持ってしまったので、痩せていて良いという事まで信用しなくなったわけです。今でも僕は、×の事を言わずに藤田先生に通っていれば確実に治ったと思っています。(先生と×の問題なので今まで人には話しませんでした)

 ここまでで分かったのは、
@ 栄養を付けるとガン細胞は増殖する。生きてゆくスレスレの栄養を摂りながら数ヶ月 暮らすと良い。
A 動物性タンパク、脂肪は全く摂らないようにする。
B 光線治療は、驚くほど痛みがとれます。痛み止めには絶対です。
C 蓮見ワクチンも貰いに行きましたが、あまり感心しません。
D カルシュウムイオン水、サルの腰掛け、特に椎源(しいたけエキス)はずっと続けま した。いくらかの効果はあった様ですが、結局基本になるのは、食養を厳格にやった上 でという条件が必要だと感じました。
E 丸山ワクチンは肺ガンにはやや効くが胃ガンにはあまり効果が無い。

 この年の始めに日立を退社したので、この年は僕がガンの治療に係り切りで、まるでその為に退社したような感じでした。

 とにかく失敗は、胃の調子が良くなったので気を良くして、栄養を付けた事でした。それに加えて、ビワの葉療法を49年の12月頃から始めた事です。これも僕が頼まれて、杉並区のビワの葉療法の本部に講習を受けに行きました。これはビワの葉を身体に当てて太いもぐさの束のようなものであぶる方法です。当時は盛んに宣伝していましたが、最近は全然見かけないようです。それが悪かったのか、或いはもう遅かったのか、年を越す頃から急に悪化し、50年の4月22日に亡くなられたのですが、一時治る感触があっただけに残念でした。やはり反省として、いくら栄養を摂っても、ガン細胞を増殖させて結局痩せてくるのだから、始めから玄米・菜食・小食で徹底すべきであったという事でした。
 その上でサルの腰掛けや椎茸エキスを続ければ良かったと感じました。

F ビタミンKは効果があると思います。注射してくきれる医者がいれば良いのですが。

 次の『ガンは助かる』ですが、これは55年頃だったでしょうか、合気を教えた人で津田染鶴という人がいました。この人は仙台の橋本敬三先生に「操体法」を習い、東京での一番弟子でしたが、(以下省略)という事で、この加藤式というのは信用できるものです。

 以上のような体験が役に立つならば幸いです。色々研究の上、是非とも健康を回復してください。この方法なら絶対だと確信しています。 吉丸貞雄 」
 

 佐川先生と私が、丸山教授のいる大学病院に行くため駅のホームで待ち合わせたとき、当然私は早く着いていて、電車がホームに到着する度に前から後まで先生を探し、その合間にまだ見えないのでペンチで本を読んでいると、突然どこから来たのか「先生を待たすとは何だ」と怒られました。そういう時は言い訳はできないので、ひらすら謝ったものでした。しかし国分寺に着いたときに、鰻重をご馳走になりました。佐川先生はウナギが大好物でした。

 書簡の控えがあったので分かったのですが、49年の3月ころ古本屋で『ガン治療に残された道』を手に入れ、そこに「×××宮殿下のガンを治した」という 趣旨の古本を見つけました。そこで電話を掛けてみたところ、藤田先生は引退しているけれども特別に診て上げるということで、佐川先生と奥様それに私の3人で世田谷に行きました。
 そのタクシーに乗せるときに「家内を負ぶってくれたので、悪く思えないのだね」というくらいの問題ではなく、一年中家族同様の生活を送っていたのです。他の門人たちは所詮他人のことで、そういうことは何にも知らないのです。

 その療法は @黒田式光線燈 AビタミンK注射 B漢方薬 C玄米食の4本建てで、先生と奥様、そして私の3人で世田谷の先生医者に毎週1度通うことになりました。
 そのときの診療費が1日1万円(現在では10万円相当)でした。半年くらい通ったと思います。

 2ヶ月ほど藤田先生に通った頃、奥様は痛みがなくなり喜んでいたのですが、そこで佐川先生は失敗したのです。とにかく痛みが無くなったので気を良くして、藤田先生の療法を止めて栄養をとったところ激痛が起こり、あわてて私たちは世田谷の藤田先生に診てもらいました。

 しかし、そこで世田谷で何があったのか、後にカルシュウムイオン水を買いに先生と一緒に行ったとき何があったか、そういうことは先生のプライバシーに属するので公開しませんが、このことが私の佐川道場退去の伏線になります。
 
 奥様は1975年4月22日に亡くなられたのですが、その前後から私への××が始まったのです。だれでも家族の病気を心配するのは当然のことですが、私は道場に出るのが苦痛になってきて、いつも家に帰ると落ち込んでしまい、最後には武道というものに価値観を失ってしまう所までに追いつめられてしまったのです。
 
 今想い返してみると、奥様が痛みがとれて病状が良くなったときに先生が取った処置で失敗したのを、あまりにも重く責任を感じ過ぎたのだと思い当たったのです。ご子息は病弱の身ですから、身内同然の関係であった私にしかそのストレスを発散することができなかったのです。
 だから人間として当然であると受け止めて、受け流しておけばよかったのですが、それには歳が若かすぎたのです。

 (4)吉丸さんが佐川道場に戻りたい、と先生に手紙を書いたとき、先生は受け入れるおつもりでした。

 私は佐川道場に戻りたいと出紙を書いた事はありません。ただ一度だけ先生にお目にかかりたいという手紙を内野さんに言付けました。

 その理由は、先生も歳のことだし、私が先生に会って謝れば先生も少しは気が楽になると考えたのです。私が勝手口に行って、、、とは考えたのですが、現在の門人の立場も考えて内野さんに手紙を言付けたのです。

 先生は自分のせいで手塩を掛けた弟子を失ったことが分かっているので、私が「一方的に謝ってしまえば」先生は面子も立つし、無礼なことをした弟子を許した器量の大きい先生であると評判にもすることも出来ると、そこまで私は先生の為に考えて、手紙を書いたのです。先生は喜んで許すことは分かっていました。
 しかし手紙を書いたのが裏目に出て、門人たちに佐川道場に戻りたいと誤解されたとは思いもよらないことで、先生のためにも残念なことでした。
     

平成17.11.03 更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村先生質問状】−10    

 私が上京した昭和25年はポッと出の田舎者で、丁度学校のある目黒で遠山道場(遠山寛賢師範首里手)を探し出して入会したのですが、ちゃんとした活動はしてなく、師範代の伊藤先生が気の毒に思って青山大学の空手部に参加させてくれました。その後少年雑誌にサンチンを紹介している写真を見て川崎に泉川寛喜先生を尋ねたのですが、その運が良かったのです。

 船員を辞めて泉川先生の好意により空手道場に住み込み、先生の家族と一緒に住むことになりました。川崎市中島はウチナンチューが多く住んでいる街で(近くには在日の街があり)、近所には三線の名人や、古流棒術伝承者も居て沖縄文化の色濃い街でした。
 当時の沖縄はまだ米国の軍政下にあり、沖縄空手の関係者も上京すると泉武館に訪れるのが常でした。それで本場の一流の先生を見ても、私の空手には自信を持っていたので、少々のことでは感心することはありませんでした。

 しかし佐川幸義先生は違っていたのです。

 国分寺空手道場の小枝指先生から聞いて興味本位で見学に行ったのですが、先生は少しも武張ることもなく優しい物腰で、私を椅子に掛けさせ、親切に説明してくれました。手を取って、力を入れないのに激痛が走りました。このときこの先生は一流中の一流なのだということが分かったのです。
 泉川先生は一流であり空手界では一目置かれる存在で、私が師範代としてお供しているときにはそれなりに処遇してもらっていて、次は剛柔流の支部を開くべく用意をしていたのですが、偶然佐川幸義先生に会ったために私の運命は転換してしまったのです。
 それから10年を過ごした空手界を離れて、佐川師との修行生活の15年を過ごすことになりました。
 (他の人は知らないので書いておきますが、佐川先生のご家族は奥様とご子息の三人、奥様が昭和50年4月22日に亡くなられた後は先生とご子息の二人住まいでした。佐川道場には週に1日か2日ほど通って何十年を過ごした人もいますが、私が昭和36年11月に入門してから昭和50年までは、先生と私とは必ず一日おきに共に時間を過ごした14年間の生活でした。)

 私が入門した昭和36年ころ、先生は積極的に弟子を集めるとか会を組織したいとかは全然考えていないようでした。それで私が道場に行っても誰も居ないこともしばしばでした。

 入門した月のこと、その夜も一人も出席者が居なくて、先生が手を取って手の使い方について詳しく教えてもらった記憶(この時は手解きでした)が、40年前のことですが、まざまざと残っています。そのころ出席者は多くて4.5名でした。
 
 なお私と入れ替わる形で、先生は印鑑を押した英名録を中島さんに渡し、奥伝四段にして道場を出しました。(ここに所有している名刺が中島俊×さんなら小平町在住なので昭和30年の最初の佐川道場生の可能性があります。)

 そこで私としては練習相手がいないのでは困るので、日立中研の独身寮とか職場で勧誘して廻ったものです。しかし努力してもなかなか門人は増えませんでした。

 昭和44年5月には「出席率極めて悪し」今月5人と日記に書いています。この5人とも日立中研です。(昼の教室は土日で、田口さんが責任者ですがこれも同じようなものでした。)
 
昭和44年(69)5月10日(金)高杉、富田
1.今月出席者 高杉、奥村、富田、増島、芹沢  出席率きわめて悪し
1.電柱にPR開始 鳥部弘明氏の協力による。

と日記にありましたが、この月は特に出席が少なくて5人しか出席していません。この5人も私が連れてきた日立中研の所員です。そこで私は連絡用に知人の電話を借りて電柱にビラを貼り付けて廻りました。電柱のビラで入門したのが一人はいたと日記に書いています。

 希代の名人であることを肌身に知っている先生を、私が独占しているのは勿体ないという気持ちで、勧誘したりビラを貼ったり、先輩の空手の弟子を入門させたりしたのです。

 これは自慢話でも苦労話でもなく、換骨拳の話に繋ぐことになります。

 なお昭和42年11月に佐川派大東流合気武術中伝三段を頂いた後(田口さんもこの頃、佐川派中伝三段)昭和44年になって、幹部のやる気を高めるために私が佐門会を作りました。佐門会は有段者はみな出席できるようにしました。というのは昭和44年では目録二段がまだ3人しか居なかったからです。佐門会の会長には校長である井上さんになってもらいました。

 そのころ昭和44年に学芸大の小原君が、遅れて相沢君が夜の教室に入門していますが、まだ佐門会には出ていません。なお小原君も相沢君も免状に佐川派の印章は押してないはずです。
(「さん、君」では失礼ですが、当時のことなので許して下さい。)

 松田隆智先生の『謎の拳法を求めて』が出版された時には佐川幸義先生の名前が出ていたので、これで会員が増えると期待していたのですが、それでも国分寺在住の堀内弁護士が入っただけでした。

 一方数年前から(昭和47年ころか)私は佐川道場の門人を増やす目的で、知人の事務所の電話番号を借りて電話番号帳に【大東流合気武術東京事務所】の名称を載せていましたが、一人も問い合わせの電話はありませんでした。
 
 ところがある日、大東流合気柔術を教えてほしいという電話がありました。それが換骨術40代宗家を名乗る堀邊先生でした。そこで私が電話を受けて「私が大東流を教えることはできないので、佐川幸義先生の直伝を受けてもらいたい、そうすれば私が復習します」と話して、堀邊先生に佐川先生の直伝を受けてもらったのです。堀辺先生は三元まで佐川先生の直伝を受けました。

 佐川先生の居間で堀邊先生と3人で話していたとき、「吉丸君には総角先生の手をちょうど半分教えたところだ」と言われていました。(当時私は八元直伝ですから、十元は総角先生の手の7割程度になります)

 堀辺先生は以前より換骨術の治療院を拡充するべく資金を用意していたのですが、佐川先生の三元直伝を受けてその合気に感心し、佐川先生を世に広く知らしめたいと考え、治療院に合気道道場を併設し吉丸に手伝ってもらうことを提案して、先生の許可を得て道場を開設したものです。これが昭和50年5月のことです。

 ですから私は大東流合気武術総本部を止めたわけではなく、夜の部の責任者としては週に1日にして、他の日は小原君に任せることにしました。もちろん日曜日の佐門会がある日は出席していました。
 それが昭和51年末まで続きます。

【大東流伝合気道の名称】
 大東流合気武術支部としなかったのは、合気武術支部では一元しか教えることができないという制約があるので、大東流伝合気道と名乗ることにし、許可を得たものです。(当時小原君は学芸大で合気武術部を作ったはずですが、一元しかできないので苦労したことを聞いていましたから。)
 なお現在の私の知見では、一元だけ稽古するのが佐川先生独特の優れた上達法であり、合気錬体法・ARMとして提唱しているものです。





  



 合気道練習生募集!!
  合気道の源流・大東流が学べる唯一の道場

 最近、合気道の源流である大東流合気柔術に非常に関心が高まっている。その大東流が都内唯一の道場が開かれ、評判になっている。協会の吉丸貞雄先生は、大東流合気柔術の名人として知られている佐川幸義宗範の門人であり、又、空手道の師範でもあるが「現在七十三歳の佐川宗範を、力一杯突いても蹴っても全く子供扱いではね飛ばされます。まだまだ修行中の身ですが、この素晴らしい合気の技を幾分かでも世間に紹介できるならば」と、道場新設について語っている。協会会長の堀辺一夢先生は、源家古武術秘伝、換骨術四十世宗家として、骨格や関節、ツボ研究家等の専門家の間に有名な先生であるが「換骨術と同じく源家相伝といわれる大東流を、名人佐川幸義宗範の御指導を得て、正しい形で知ることができるのは、今迄合気道修行者にとって熱望されていたことです。換骨術を母胎とした古武道医術も同時に教えるので、技の面でも新境地を開くことができるでしょう。」と協会の特色を語っていました。
東京都東中野区東中野×××
大東合気武術協会







【佐川幸義先生の道場用肖像】
 道場に佐川先生の肖像を掲げるために撮ったのがこの写真で、国分寺の写真屋で撮ったものです。昭和50年初頭のことです。





































【大東流伝合気道の看板】
 道場はビルの3階を借り、階段を上がった踊り場に看板を掛けました。








































 



【吉丸慶雪の名前】 
 支部を開くには武術家らしい名前と考え、ご子息の佐川敬行様に字画を調べて戴き、佐川先生の許可を得て慶雪と名乗ったものです。この看板は東中野の道場の踊り場に掛けてあったものです。なお最近まで気が付かなかったのですが、先生は幸義(ユキヨシ)で後子息は敬行(ヨシユキ)、慶雪(ケイセツ)は(ヨシユキ)だったと最近気がついたものです。
 なお日本では尊敬する目上を音読みする慣習がありますので、私は何時も佐川コウギと呼んでいました。そのため『合気道の科学』のハングル版を出したときに、漢国の版元から佐川幸義の読みを質問してきたのですが、いつもの習慣でつい「サガワコウギ」と答えてしまいました。それで漢国ハングル版の『合気道の科学』では佐川幸義先生を「サガワコウギ」と表記していますが、これは無用の混乱を生んでいるかもしれません。

平成17.12.07 更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村達雄先生質問状】−11

(5)先生が玄関の整理をされていたら吉丸さんの合気道講習の案内が出てきて、「なんだ、これは!」と先生があきれておられました。そこには、すぐ申し込めば割引、なんて書いてありました。

 木村達雄先生は弟子として、先生の一方的な情報を信じるしかないのですが、今では何らかの事情があったことと察していると思います。
 それで上記(5)について誰が嘘をついているとかはどうでも良いことですが、世間では吉丸とはとんでもない奴だということになってしまうので、一応説明をしておきます。

 (5)については、はっきり言って創作です。

 昭和50年8月18日のスポーツ新聞の大東合気武術協会の広告写真を掲載し、東中野の道場で佐川幸義先生の肖像を掲げたことは木村達雄先生質問状−10で述べました。

 「合気道講習の案内」などするわけはないのですが、考えてみると当時はせっかく新しい合気道の道場を作ったのですから、新聞で折り込みなどを宣伝し、いま申し込めば入会金は免除くらいのことを書いた可能性はあるのでは、と思っていました。

 ところが今回11月5日に、私が書類を整理していたところ裏書のメモがあり、何とその表は30年前の合気道場開設のビラでした。そこにはすぐ申し込めば割引などと何処にも書いてありません。思いも寄らず30年間も保管したものですからここに実物を出しておきます。


 

 道場開設の案内ビラ

 大東合気武術協会






















































 なお私は「合気道の講習会」をしたことは無いのですが、大東合気武術協会が発足してから佐川幸義先生の一元の講習会をしました。
 次がそのときの写真です。




   大東流宗範 佐川幸義先生先生 第1回直伝会
                      1975.10.19


(その後、大東合気武術協会は散会しましたので当時の生徒は消去しています。)


 その後の11月頃、先生が東中野の道場に寄りたいというので二人で行きました。そのときに、なんだ、これは!と言われたという問題のビラを先生が持って帰られたのでした。

平成17.12.19 更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村達雄先生質問状】−12
 前回の【質問状】の最後で「その後の11月頃、先生が東中野の道場に寄りたいというので二人で行きました。そのときに、「なんだ、これは!」と言われたという問題のビラを先生が持って帰られたのでした。」と書きましたが、それは昭和51年の12月22日(水)のことでした。当時のメモにより正確な日付がわかりましたので訂正します。

 次の日、私は大東合気協会を散会することを決心しました。

 理由は一種の親子喧嘩だったのですが、その詳細は他人に知らせることではないので、後日、ご子息佐川敬行様と木村達雄先生には書簡にてお知らせします。

 佐川先生の第1回直伝会(1975.10.19)より、おおよそ1年して大東合気武術協会は潰れてしまって私の大東流伝合気道は廃止、堀辺先生の換骨術が残ったということになります。

 なお昭和50年以前の佐川道場について述べておきます。なお先生の70才の頃に受けを取っているのは殆ど私です。
 
 数ヶ月前、ホームページを見て連絡してきた古い佐川道場生から昭和49年ころの佐川道場について手紙をいただきました。参考のために許可をもらい手紙を公表してみます。 


吉丸様                                           平成17年10月28日
 拝啓 村×です。
 早いもので30年経ってしまいましたね。あの当時観音×恵会の滝行の時に吉丸先生と知り合い、
先生のご紹介で佐川先生の道場に入門しました。昭和49年の4月のことです。大學1年の頃から少
林寺拳法をやって初段までとりましたが約1年で止めてしまいました。力任せに突き、蹴り、逆手をと
るので手首足首を痛めたからです。最初合気道は関心がなかったのですが、吉丸先生の話で興味
を持ちやってみようと思いました。私が大學4年生の時で、三鷹に住んでいましたので佐川道場に通
い始めることができました。

 当時佐川先生は技を見せるということをほとんどしませんでしたので、ほんとうに強いのかわかりま
せんでした。時たま佐川先生が吉丸先生の手を取って技をみせてくれるのですが、投げ技はやらず
合気上げから逆に固めてしまうものでした。また、門人もいつも6人くらいで、たまに10人くらい集まる
と新人は隅で合気上げの練習をしていました。
 (中略)
 結局6ヶ月ほど通いましたが、Oさんに思い切り関節を攻められたことや、合気というものが理解でき
ず、このまま本当に実戦で使えるのかなという疑問があってこれも止めてまいました。Oさんと手合わ
せしても技をよく覚えていないのか吉丸先生によく聞いていました。小柄な方ですし本当に強いのか
疑問を持ちました。
 その後就職し三鷹を離れてしまいましたが佐川道場のことと合気とはどういうものか考えていました。
(以下省略)  

                                                            敬具


 
 先生の合気は掴んでいる私には神技と分るのですが(これが体之合気でした)、この手紙にあるように、他の見ている人は何をしているのか分らない、というものでした。やはり素人を感心させるには投げ技を派手に見せるのが必要ですね。

再度
 (13)吉丸くんは体は大きいが気は弱かった。自分より小さい座捕りで後輩に投げられているんだからね。

 というのに関係があります。「小さい後輩」は手紙にあるO君のことで(『透明な力』の中に出ているO君)、彼は私に対して「座取りで投げる」などは絶対にしない人なのです。先輩である私が技を掛けるときは、彼は技が効かないのに自分から倒れるのです。なにしろ私が手解きから教えた人ですから。
 だから「小さい後輩に投げられていた」ということは絶対になかったのです。しかしその代わりに、後輩には絶対に掛けさせないで、一寸でも力を入れると徹底的に痛めるという性格でした。
 彼の後輩であるA君も同じにされていました。そして手紙をもらって始めて、村×さんもO君にやられていたことを知りました。(個人的に誹謗するものではありません。念のために)

 昭和50年以後は佐川道場の技が変わったように見えます。道場の性格は責任者の性格によりますので、昭和50年に私が夜の責任者を止めて0君に責任者を譲ったため、以後佐川道場の性格が変わったものと観察していました。

平成18.3.19 更新
吉丸貞雄(慶雪)

【木村達雄先生質問状】−13
 平成18年7月29日付けで、佐川敬行様ならびに木村達雄先生宛の親展書簡を送付しました。
 昭和50年の奥様の病気から大東合気武術協会の発足、昭和51年12月27日のいわゆる離門状を送付したことまで、資料を添えて当時の真相を説明しました。
 その内容については佐川敬行様、木村先生、吉丸そして有満庄司の4名の身内だけに留めることが最善と考えますので、合気錬体会では極秘として封印することにしたいと思います。
 佐川道場での取扱いは、佐川敬行様ならびに木村達雄先生に一任いたします。

 以下は離門後、先生より配達証明付きでいただいた書簡です。












   


 なお佐川幸義先生は大東流伝合気道を追認されていますが、離門後、吉丸に大東流伝合気道八段を免許されています。これも第3者に言ったのは初めてのことです。

平成18年8月7日
吉丸慶雪

「木村先生質問状」は完結いたしました。
最終稿である「木村先生質問状ー総括」は一番上にあります。こちらをクリック