高橋賢先生新著作について

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合気錬体会        
初代総師範 吉丸慶雪


ご報告

平成24年10月28日(日)
  「高橋賢先生新著作」を更新致しました。
和解調書の「和解条項」全文を掲載いたしました。
応援してくださった皆様、ありがとうございました。

                        ご報告        平成24年3月30日(金)
 
高橋賢先生と大東流合気佐門会が我々合気錬体会に対して横浜地方裁判所相模原支部に
起こしておりました報復裁判の判決が平成24年3月28日(水)にありました。
これも当然ながら勝訴いたしました。
それも完全勝利です。
完璧に勝ちました。
会員や支援者の皆さん、応援ありがとうございました。

これも弁護士先生と相談して詳細を徐々に載せていきます。

                        ご報告        平成24年3月18日(日)
 
高橋賢著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」における吉丸先生への誹謗中傷について
東京地方裁判所に起こしておりました名誉毀損裁判ですが、当然ながら勝訴いたしました。

我々錬体会が最重要だとして主張していた部分のほとんどが認められています。
判決文というのは素人には分かりにくい部分が多いため、弁護士先生と相談して
詳細は徐々に載せていきます。



  昭和50年8月に大東合気武術協会を設立するにあたり
  佐川先生より出された自筆指導許可免状

  この免状と下記の免状に基づき、佐川先生75歳以降の
  佐川伝大東流の技法と区別するために合気錬体会では
  佐川派大東流を名乗っています。




















   昭和42年11月吉日
   佐川派の印が押された免状

   佐川派大東流合氣武術總本部
   宗範  佐川幸義





















    
 また佐川派大東流合気武術とは別に佐藤金兵衛先生より伝承された山本派大東流合気柔術と植芝合気道を伝えています。



 平成24年10月28日(日)
 東京高等裁判所において、吉丸先生と高橋先生との間に「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」の記述をめぐる事件の和解が成立いたしました。
 和解条項につきましては以下の通りです。
 「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」の改訂版が発行されたことを確認いたしましたら、本和解の通り、事件が円満に解決したことを鑑み、速やかにこちらのページを削除いたします。


和 解 条 項 
 1 第1審被告らは、第1審原告に対し、第1審被告福昌堂の発行する、第1審高橋賢の著作に係る著作物である「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」(以下「本件著作物という。)第3章「佐川道場体験記」中の記述を、本件和解成立日以降発行するものにつき、以下のとおり変更する(頁数及び行数は、第1審被告福昌堂発行の本件著作物初版第1刷による。)。
 (1) 159頁1行目の「身長180センチを超す巨漢を赤子の手をひねるように投げる」を「剛力のある先輩を赤子の手をひねるように投げる」と変更する。
 (2) 同頁2行目の「身長1メートル80センチを超える巨漢・吉丸貞雄さん」を「体格の立派な先輩」と変更する。
 (3) 同頁2行目から3行目の「剛柔流空手の元師範であり、」を削除する。
 (4) 同頁3行目の「吉丸氏」を「先輩」と変更する。
 (5) 同頁3行目から4行目の「熊を相手にするようなもので、」を削除する。
 (6) 同頁5行目の「吉丸氏」を「先輩」と変更する。
 (7) 同頁6行目の「同氏」を「先輩」と変更する。
 (8) 同頁10行目及び同頁11行目の「吉丸氏」をいずれも「先輩」と変更する。
 (9) 同頁12行目及び同頁13行目の「同氏」をいずれも「先輩」と変更する。
 (10) 同頁15行目の「巨漢」を「先輩」と変更する。
 (11) 同頁16行目の「吉丸氏」を「先輩」と変更する。
 (12) 同頁17行目の「同氏」を「先輩」と変更する。
 (13) 同頁18行目の「巨漢」を「先輩」と変更する。
 (14) 160頁1行目の「これが実戦であれば、同氏の」を「これは模範演武であるが、もし実戦であれば、先輩の」と変更する。
 (15) 同頁10行目の「吉丸氏」を「先輩」と変更する。
 (16) 同頁10行目及び同頁11行目の「同氏」をいずれも「先輩」と変更する。
 (17) 同頁12行目の「先生の片膝が同氏の右肘にビシッと当たり、極められた。」を削除する。
 (18) 同頁13行目の「吉丸氏」を「先輩」と変更する。
 (19) 同頁13行目、同頁15行目及び同頁17行目の「同氏」をいずれも「先輩」と変更する。
 (20) 161頁の写真2葉を削除する。
 (21) 162頁の1行目の「巨漢の」を削除する。
 (22) 同頁2行目の「吉丸氏」を「先輩」と変更する。
 (23) 同頁2行目から3行目の「いかに突き蹴りが速く威力があろうと、」を削除する。
 (24) 同頁4行目及び5行目の「同氏」を「先輩」と変更する。
 (25) 同頁10行目及び同頁15行目の「吉丸氏」をいずれも「先輩」と変更する。
 (26) 同頁16行目、同頁18行目および同163頁1行目の「同氏」をいずれも「先輩」と変更する。
 (27) 同163頁6行目冒頭から同頁15行目末尾までの記述を削除する。

 第1審原告は、第1審被告高橋賢に対し別紙WEBサイト目録記載1のサイト「高橋賢先生新著作について」を削除する。

 第1審被告高橋賢は、第1審原告に対し、解決金として30万円の支払義務があることを認める。

 第1審被告高橋賢は、第1審原告に対し、前項の金員を、平成24年11月12日限り、第1審原告の指定する次の口座に振り込んで支払う。ただし、振込手数料は第1審被告高橋賢の負担とする。
 ○○○銀行○○○支店
 普通預金口座(口座番号○○○○○○○)
 口座名義 ○○○○○○

(1) 第1審原告及び利害関係人と第1審被告高橋賢とは、今後、相互に、相手方及びその指導する流派に対して、誹謗中傷に当たる言動やその活動に干渉し又はこれを妨害する行為をしないこと及び第三者をしてこれらの行為を行わせないことを約束する。
 (2) 第1審原告は、本件が本和解により円満に解決したことに鑑み、別紙WEBサイト目録記載2のサイト「木村達雄先生からの質問状」中、「★付記」「⑤昭和51年12月27日」に係る記述のうち「使者としてきた井上さんにはある程度の事情を説明したのだが、その結果、後に道場に居ずらくなったようで現在は井上さんは所在不明とのこと。」を削除する措置をとることとし、その他、同サイト中の第1審被告高橋賢が訂正又は削除を要望する記述部分について、その理由、必要性及び根拠を誠実に検討し、対応することとする。
 (3) 第1審被告高橋賢は、本件が本和解により円満に解決したことに鑑み、第1審原告及び利害関係人との間の知的財産高等裁判所平成24年(○)第○○○○○号損害賠償等請求控訴事件(原審・横浜地方裁判所相模原支部平成22年(○)第○○○号損害賠償請求事件)の控訴を取り下げる。

 当事者双方及び利害関係人は、本和解が成立したことをインターネット、著作物その他の方法により不特定多数の者に対して公表する場合には、前項(1)に留意し、かつ、本和解条項の全文を明示して行うこととする。

 第1審原告は第1審被告らに対するその余の請求を放棄する。

 当事者双方は、第1審原告と第1審被告高橋賢との間及び第1審原告と第1審被告福昌堂との間に、本和解条項に定めるほか、相互に債権債務がないことを確認する。

 第1審被告高橋賢と利害関係人は、本和解条項に定めるほか、相互に債権債務がないことを確認する。

10 訴訟費用及び和解費用は、第1、2審を通じて、各自の負担とする。

 以 上


 平成24年9月19日(水)
 その後の裁判の経過ですが、実は裁判所からの調停で和解の方向で話合いが進んでいます。
 弁護士の先生に一任してあるそうですが、吉丸先生は和解で良いと考えておられるようです。
 故佐川幸義先生の弟子同士で長期に争って、佐川先生の名前や栄誉に傷がつくより、ある程度は折れて妥協してよいと考えられたようです。
 それで裁判所の出してきた和解案に一点だけ注文をつけましたが、高橋先生も了承しましたので、これで決まり、和解成立と思われたのですが・・・・。

 まあ、そこからが長い。(笑)
 その詳細は、今後、和解がどうなるか分かりませんので、ひょっとしたら後日談でご報告できるかもしれません。(笑)

 東京の裁判は吉丸先生が高橋先生を名誉毀損で訴えた裁判ですから、裁判的、法的に無関係な私が口を挟む余地は無いのですが、私個人は最後までやって白黒ハッキリさせた方が(後々のことを考えると)良い気もしています。
 それに吉丸先生の唯一の気がかりであった佐川先生の名誉に関する件もすでに一審の裁判記録に残ってしまっていますからね。

 今後の一切は弁護士先生に一任してあるので、どちらに転んだとしても、私は吉丸先生の弟子ですからその結果に従います。

 合気錬体会総本部 有満庄司
 


 平成24年7月6日(金)
 会員から「報復訴訟って何を訴えられたんですか?」と質問があったので、そういえば何の説明もしていなかったと思い、下記の判決文を出したのですが、その後、新たな事実が分かりましたので、ご報告いたします。

 下記判決文の請求の趣旨のうち、1~4までの佐門会側の請求の棄却は確定したそうです。
 控訴したのは、高橋先生だけだそうです。
 佐門会は、控訴しなかったそうですので、控訴審で争うのは高橋先生の5~8の請求についてということになります。
 しかし、高橋先生には悪いのですが、逆転は難しいのではないでしょうか。
 なぜなら、我々は高橋賢著「大東流合気の真実」で誹謗中傷されたことに対して反論しているだけですから。
 もし我々がホームページで反論しなければ、「大東流合気の真実」に書かれた事を事実と認めたことになりかねません。
 それに高橋賢著「大東流合気の真実」の読者全てが、我々のホームページを見てくれているわけではありませんから、今後も我々はますます声を大きくしていかなければなりません。

 相模原の裁判について、後日、解説を載せていくことになるのですが、佐門会とは大事なこと(大東流の継承について)を争っていたのです。
 控訴しなかったということは、佐門会が我々の主張を全面的に認めたということになると思います。
 やはり佐川先生が後継者を指名せずに亡くなられたというのは本当だったようです。

 それに佐門会側は吉丸先生が佐川先生から指導免許である自筆の「大東流柔術秘伝目録」を与えられていることを知らなかったようです。
 東中野道場が佐川道場の全面的な支部であれば、入門者があったら入門料を収めるという約束で英明録を与えられるのですが、東中野道場は堀辺先生が資金を出した為に、佐川道場から独立してやっていけるように「大東流柔術秘伝目録」が与えられたようです。

 吉丸先生も佐川先生の生前は道義的遠慮があった為に、佐川道場離門後は指導免許「大東流柔術秘伝目録」があることを公表していませんでした。

 そのうちに佐藤金兵衛先生が病気で危ないということで、佐川先生の存命中には他の先生から免許を受けないと固辞していた吉丸先生も折れて、「大東流合気柔術秘伝奥儀之事」を授けていただいたのでした。
 「大東流合気柔術秘伝奥儀之事」は佐川幸義先生が武田惣角先生から戴いた免許と同じものです。
 久琢磨先生が戴いた皆伝免許が一番立派な免許だというのは、佐川先生も認めておられたそうですから、「大東流合気柔術秘伝奥儀之事」は大東流では2番目に格式のある免許ということになるのでしょうか。

 吉丸先生は、佐藤金兵衛先生から「大東流合気柔術秘伝奥儀之事」を戴いてからは、もう指導免許「大東流柔術秘伝目録」については言う必要はないと考えて封印していたのですが、今回の裁判で公表することになったものです。

 我々が師範免許ではなく指導免許といっているのは、佐川道場では師範といえば唯一人佐川先生のことであり、それに佐川道場の規定では極伝九段になって初めて師範と呼ぶからです。十元というのは段位ではなく、単に技の体系のことです。だから十元師範という言い方はおかしいということが分かると思います。ですから仮に英明録を貰っても、そこに師範とか教授代理と無ければ、佐川道場では師範ではなく、単に大東流の指導をして良いというだけのことです。

 ですが高橋先生達がただの「英明録」を師範免許とするのであれば、吉丸先生の「大東流柔術秘伝目録」も師範免許ということになります。
 なぜなら東中野道場を出す際に、佐川先生から「これで大東流を名乗ってよい、段位も独自に出してよい」と言われたからです。


 それでもう片方の東京の裁判の件ですが、東京高等裁判所は結審しました。
 今、判決待ちです。
 こちらは最高裁まで争うかもしれません。
 確定してから、ご報告いたします。

 合気錬体会総本部 有満庄司


  横浜地方裁判所相模原支部
  平成24年3月28日判決言渡
  平成22年(ワ)第○○○号 損害賠償等請求事件

         判    決

 原         告    大東流合気佐門会
 同代表者代表理事    内 野    孝 治
 原         告    高 橋      賢

 被         告    吉丸慶雪こと吉丸貞雄
 被         告    有 満    庄 司

 主文
 1 原告らの請求をいずれも棄却する。
 2 訴訟費用は原告らの負担とする。

 事実及び理由
 第1 請求の趣旨
  1 被告吉丸貞雄は、原告大東流合気佐門会に対し、別紙書籍目録1ないし4記載の書籍を印刷、出版、製造、販売又は領布してはならない。
  2 被告らは、原告大東流佐門会に対し、別紙DVD目録記載1ないし3記載の各DVD商品を製造し、又は領布してはならない。
  3 被告らは、原告大東流佐門会に対し、別紙WEBサイト目録2及び3記載の「木村達雄先生の質問状」及び「吉丸慶雪合気談」を削除せよ。
  4 被告らは、原告大東流佐門会に対し、連帯して600万円及びこれに対する平成22年5月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
  5 被告らは、原告高橋賢に対し、別紙WEBサイト目録1記載の「高橋賢先生新著作」を削除せよ。
  6 被告らは、原告高橋賢に対し、連帯して200万円及びこれに対する平成22年5月9日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
  7 訴訟費用は被告らの負担とする。
  8 4項及び6項につき仮執行宣言。

 第2 事案の概要
  1 本件は、大東流合気武術宗範であった亡佐川幸義(以下「亡佐川」という。)を巡る大東流合気武術に関する一連の事件であるといえ、大東流合気武術を伝承するため佐川道場を運営などする権利能力なき社団である原告大東流合気佐門会(以下「原告社団」という。)が、佐川道場に入門して亡佐川から武術の教えを受けた後離門した被告吉丸貞雄(以下「被告吉丸」という。)及び合気錬体会のホームページを事実上主催するなどする被告有満庄司(以下「被告有満」という。)に対し、①被告吉丸が亡佐川と締結した、無断で亡佐川が教授した一切の技法・口伝を流布してはならないなどとする秘密保持契約上の地位を原告社団が承継したことを前提に、被告吉丸が秘密保持契約に違反して佐川伝大東流流儀の秘密である技法を無断で公開する書籍を発刊して販売するなどしたり、前記ホームページにあるWEBサイトに佐川伝大東流流儀の秘密である亡佐川の口伝を多数記載して公開したりし、被告有満が同違反を補助しているなどとして、同違反に係る書籍販売差止め等、DVD製造差止め等、WEBサイト削除を求めた(ただし、書籍販売差止め等については被告吉丸に対してのみ)事件、②被告らがWEBサイトにおいて、佐川道場に入門して現在原告社団の理事を務め亡佐川伝大東流合気に関する著作をした原告高橋賢(以下「原告高橋」という。)の著作物記載内容及び写真を無断で掲載して原告社団の名誉を毀損するなどしたこと、被告吉丸がWEBサイトやその著作物に亡佐川や門人の写真等を無断で掲載するなどして肖像権やプライバシー侵害を侵害し、被告有満がこれに関与するなどしたこと、被告吉丸が秘密保持契約に違反して佐川伝大東流の教えを無断で流布し、被告有満がこれを補助したことを原因として不法行為に基づく損害賠償を請求する事件、また原告高橋が被告らに対し、③被告らがWEBサイトに原告高橋の著作物の文章を記載し原告高橋の著作権(複製権、公衆送信権)を侵害し、その記載の利用方法には内容がうそで非道いと決めつけるなどして原告高橋の名誉を毀損するなどして著作者人格権を侵害したとして、著作権(複製権、公衆送信権)ないし著作権法(著作者人格権)違反に基づきWEBサイト削除を求めた事件、④被告らがWEBサイトに原告高橋の著作物の記載がうそで非道いなどと記載して原告高橋の名誉を毀損するなどしたことを原因として不法行為に基づく損害賠償を求めた事件が併合提起された事件である。
 被告吉丸は、平成21年9月ころ、東京地方裁判所に、被告を原告高橋及び前記原告高橋の著作物を出版する会社として、同著作物159頁から163頁の記述が虚偽であり、被告吉丸の信用を毀損することなどを原因とする不法行為に基づく損害賠償等を請求する事件(平成21年(ワ)第○○○○○号。以下「別件事件」という。)を提起し係属している。

  2 前提事実(末尾に証拠等を掲記した事実のほかは、当事者間に争いがない。)


 続く


  平成24年4月25日(水)
 昭和50年8月の東中野道場設立に間に合うように、昭和50年7月吉日付けで佐川先生が吉丸先生に与えた佐川先生自筆の指導許可免許「大東流柔術秘伝目録」です。(高橋賢著「佐川幸義伝 大東流合気の真実」によれば、これは師範?免許ということらしいです。)
 東中野道場設立にあたり、佐川幸義先生から「これで大東流を名乗って教えて良い。」と渡されたそうです。
 道場設立の際には、他にも「独自に段を出してよい」「基本技だけでなく上級技も教えて良い」等といったことが話し合われたそうです。(堀辺先生証言)
 吉丸先生は他にも佐川先生自筆による「大東流合気之躰術目録」の巻物も与えられています。
 横浜地方裁判所相模原支部における高橋先生と佐門会による報復裁判において提示されました。


  



    


平成24年3月25日(日)

 高橋賢著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」における吉丸先生への誹謗中傷について、吉丸先生が東京地方裁判所に起こしておりました名誉毀損裁判ですが、当然ながら勝訴したわけなんですが、なんかスッキリしません。
 それは吉丸先生が墓まで持っていくつもりでいた佐川先生の秘密が裁判によって明らかにされてしまったからです。
 その点だけは、吉丸先生も心を痛めていました。
 その秘密は吉丸先生と私(有満)、佐川道場では敬行様と木村達雄先生の4人だけの秘密で封印しておくはずだったのです。
 当然、裁判でも隠して争っていたのですが、途中、とうとう隠しておけなくなってしまったのです。
 残念ですが、こちらはH弁護士先生1人に対して、高橋先生側は5名の弁護士による大弁護団で攻勢をかけてきていましたので、何故離門したのかを正直に話す必要ができてしまったからです。
 なぜならその秘密が、吉丸先生をやむなく離門へと追い込んだ理由だったからです。
 当時、吉丸先生は故佐川先生のことを義父と慕っており佐川先生も後継者と見込んでいました。(裁判で認定)
 ですから余程のことが無ければ離門することなど無かったのです。
 離門については佐川先生にその原因があり、そのことを佐川先生は知っていたので、吉丸先生のことを怒っていなかったのです。

 結果、その秘密は判決文にも載ってしまい認定されていますので、もう隠しておけません。

 実は係争中に、高橋先生側から一度和解の申し入れがあったのですが、条件の提示も無く、なぜかその後撤回されて裁判は結審したのですが、ちょっと残念でした。
 佐川先生の名誉のためであれば、吉丸先生も無理な和解条件を出さなかったと思うのですが。
 もしその時に和解を進めておけば、佐川先生の名誉は守られたのに、と思うと残念です。
 その点が勝ってもスッキリしないところですね。
 吉丸先生はギリギリまで、その秘密を語ることを拒んでいましたから。
 
 合気錬体会総本部 有満庄司
 


   高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』批判-8
                                     
             22.5.9  吉丸慶雪
8.吉丸慶雪の失墜が目的か

高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.159~161 

◆身長180センチを超す巨漢を赤子の手をひねるように投げる◆  高橋 賢
 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.161
 
写真
昭和47年1月9日、吉丸氏の肘にまさに肘打ちをいれようとしている佐川幸義先生
 
 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.162~163

◆巨漢の突き・蹴りを瞬時につぶす◆


 BIGLOBEなんでも相談室

質問者:carpedist  大東流合気柔術の佐川道場について http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4835238.html

大東流合気柔術の佐川道場について
この春、中学2年生になる息子に大東流合気柔術を習わせようと思っています。

どうせ習わせるなら最高のものをと思い、佐川道場のことを調べているのですが、この道場は現在では弟子をとっていないのでしょうか。

もし、何か情報をお持ちでしたら教えていただけると幸甚です。

 
回答者:rakudagoro

(回答の抜粋)

 ですが、これは大東流のみならず古武道全般に言えることですが、ほとんどの道場が型稽古です。右手で手首を持ちなさい、左拳で腹を突いてきなさい、そう指示して攻撃させてそれに対して技をかける、また、攻撃のスタイルも刀社会を想定したもので手首をつかむ技が多い。もちろん現在の合気道の稽古もこの点では同じです。

大東流の武田惣角先生も、朝日新聞記者の取材を受けた時に、その記者にたいして、腕をつかめ、拳で突いて来い、首を絞めろと指示して、自分のやりやすい攻撃に限定させていました。自由に攻撃してきなさいとは言わなかった。(昭和5年「世を避けた今卜伝」)

武勇伝?らしきものを読んでも、聞いても、みな、ここをつかんでみろ、こう打って来いと言って攻撃させています。(もしくは自由に投げたと言っても素人だったりします)仮に、「自由に突いて来い」とだけ言ったとします。でも狙ってくるのはたいてい顔か腹です。飛んでくるのは左右の拳のどちらかで限定、予測しやすいです。自由に攻撃してきなさいとは決して言わない。

 ある大東流の道場では、先生が私服で椅子に座ってばかりでまったく教える気が無かった。その先生の技は非常に素晴らしいと絶賛されていたが実際はどれだけ強いのか、武道、格闘技通の中には懐疑的に見る者もいました。弟子につかませたり、組ませたり、顔を突かせて技をかけていましたが、全て先生の指示通りの限定的な攻撃です。確かに限定的な攻撃には非常に強かった。弟子、初心者相手の限定的な攻撃に対しては「達人」だったと言えるでしょう。特に手首を持たせた状態から投げる合気上げに関しては第一級だったと思います。



 上記のように大東流は型稽古である。もちろん佐川道場でも型稽古であり、「右手で手首を持ちなさい、左拳で腹を突いてきなさい、そう指示して攻撃させてそれに対して技をかける」というのは常識であり、「高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.159~163」の話、 これはあり得ないストーリーである。
 昭和50年当時において、佐川道場にこうしたシーン(『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.159~163)は全くなかった、と断言できる。



高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』における問題点

1.A師範(○藤9段)が繰り出す左払い腰と釣込み腰の豪快さには定評があったももの、佐川先生にいきなり手首をつかまれただけで、身動きがとれなくなり、先生の足元に極め倒されてしまったのである。(○藤9段への冒涜と侮辱と非礼)

2.吉田幸太郎、松田敏美などの大東流の古い師範たちも、先生の前では子ども同然。自分が年長であることから、吉田師範は先生に対して尊大な態度をとり続けていた。吉田師範は佐川先生を訪ねて、「某流のBが、大東流の影響を受けたことを隠し、独自に一流を打ち立てたと言っています。武田先生を侮っているのでどうか懲らしめてやって下さらないか」と懇願してきた。(吉田幸太郎師範への冒涜と侮辱と非礼)

3.先生が早速某流の道場を訪れると、すでにもぬけの殻だった。(八光流奥山師範への冒涜と侮辱と非礼)

4.B師の師匠である松田敏美師範が慌てて先生を訪ね、「Bは私の弟子です。この度の御無礼はお詫びしますので、どうか御勘弁ください。」と、平謝りにあやまったという。弟子のためにわざわざ北海道から東京まで飛んで謝罪に来た松田師範。(松田敏美師範への冒涜と侮辱と非礼)

5.怪力で知られたC(湯川氏)は満身の力を込めて先生の手を押さえようとするももの、先生は涼しい顔をしながら合気揚げで簡単に崩して、投げてしまった。力尽きたC(湯川氏)は「もの凄い力ですね」と溜め息をついた。 (植芝師範の弟子湯川氏への冒涜と侮辱と非礼)

6.得意気な植芝師範。大東流の基本技と合気投げの技法を中心に教える合気道を創始した植芝盛平師範。(植芝盛平師範への冒涜と侮辱と非礼)

7.一ヶ条などの基本技から構成されている大東流の技法体系をよく知らず、常々疑問に思っていた。堀川師範は実力の差にがっくりとうなだれた。真剣に大東流の技法体系を学びたいと思った。(堀川幸道師範への冒涜と侮辱と非礼)

8.バカにされたと感じた武田先師は講習が終わると、佐川先生に「幸義さん、恥かかされた。仇とってくれろ!」と悔しそう話した。(先師武田惣角先生への冒涜と侮辱と非礼)

そして
9.「◆身長180センチを超す巨漢を赤子の手をひねるように投げる◆」「◆巨漢の突き・蹴りを瞬時につぶす◆」の小説とスナップ写真の3点のセットによりデッチ上げた吉丸への悪意のストーリー。(吉丸慶雪への嘘と侮辱と非礼、名誉毀損)

10.しかも吉丸の著書への「時宗」「わし」問題(『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.143)とある。(吉丸慶雪への信用毀損)

 この10点のデッチ上げたストーリーにより、各師範方と吉丸慶雪の名誉を毀損しさらに信用を毀損している。

 しかも贔屓の引き倒しにより、佐川幸義先生の品位と名誉まで毀損しているのである。




続く
 

   高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』批判-7
                                     
             22.5.5  吉丸慶雪
7.吉丸慶雪著『合気道の奥義』への言いがかり

 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.143

 ◆大東流宗家に推戴される◆ 高橋 賢

 この機会に訂正しておきたいことがある。ある本によると、佐川先生が時宗師範のことを「時宗」と呼び捨てにしていたように記されているが、これはおかしい。まず、先生は時宗師範のことを幼名の「宗三郎さん」と呼び、「時宗さん」と呼ぶことはほとんどなかった。
 さらには、門人に対しても先生は呼び捨てにすることはなく、必ず「○○君」と呼んでいた。中には「○○さん」と、佐川先生から「さん」付けで呼ばれていた門人もいる。
 また同書によると、佐川先生は御自分のことを「わし」と呼んでいたとのことであるが、これも事実に反す。


★『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』の中に特筆しているのが上記である。
 「時宗」と呼び捨ていしていたように記されているが、これはおかしい。「わし」と呼んでいるとのことであるが、これは事実に反す、である。

 案ずるに、吉丸慶雪著『合気道の奥義』には、佐川先生の聞き書きをそのまま書いてあり、先生が「宗三郎さん」と言うのを吉丸が「宗三郎」と書くとか、先生が「私」というのを吉丸が「わし」と直すとか、常識ではありえないことである。
 にも拘わらず「これは事実に反す」と特筆するのは吉丸慶雪の信用を毀損する行為である。

高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.139

◆大東流宗家に推戴される◆ 高橋 賢

 昭和11年、先生は、先師の東北から関東への「講習行脚」に同行していた。ある講習会において、受講者の一人が先師の手を故意に離れてしまうために合気の技が効かないことがあった。
 バカにされたと感じた武田先師は講習が終わると、佐川先生に「幸義さん、恥かかされた。仇とってくれろ!」と悔しそう話した。
 その翌日の講習で、先生は問題の受講者にここぞとばかりに技をかけ、大東流がいかに激烈な武術であるかを身もって体験させたのである。この受講者は、その途端に態度を改めて恐縮したという。 

★「幸義さん、恥かかされた、仇とってくれろ!」と悔しそう話した。

1.「幸義さん、恥かかされた。仇とってくれろ!」は不審である。
2.「悔しそう話した。」これは先師を愚弄する言葉である。
3.「大東流がいかに激烈、、、、恐縮したという。」というのは小説では良いが、これは「佐川幸義先生伝の真実」であるから正しく真実を述べる必要がある。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

41.2.10(木) 高杉、長田、小野

 敵が手を外すと合気で攻めることは出来ないのでこちらから掴んでゆかねばならない。川口の警察(佐川先生の言葉のまま)に武田先生と講習に行ったとき、柔道五段(六段?)の男が、武田先生が七十何歳の老人なので馬鹿にして手を離した。その夜、先生が「ユキヨシ明日お前がカタキを取れ」と言うので、翌日わしが両手を掴んで散々投げてやった。
佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

 46.8.25

 武田先生が合気で倒すのは初心者だけだった。大宮警察(佐川先生の言葉のまま)で一人が両手で掴んで後ずさりして掛からないことがあった。その夜「ユキヨシ敵をとれ」と言われ、次の日にわしが出て投げつけたことがある。

 吉丸の聞き書きでは、昭和41年と46年とで同じ話があり、「ユキヨシ明日お前がカタキを取れ」「ユキヨシ敵を取れ」とあり、これそと惣角先生らしい人間性のある挿話である。

 だから「幸義さん、恥かかされた、仇とってくれろ!」というのは些事であるが、高橋氏が「この機会に訂正しておきたいことがある。ある本(『合気道の奥義』)によると、佐川先生が時宗師範のことを、、、、「わし」と呼んでいたとのことであるが、これは事実に反す。」と特筆する意味が分からない。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪 

40.3.21(日)小野、細谷、小川宏
 武田時宗は、植芝を始め全国の武田惣角先生の弟子を訪ねたとき、「惣角先生と同じ様に手を開いているのは佐川先生と私のただ二人だけだった」と言っていた。その時わしはなぜ山吹の花のように開くか、その原理は合気の極意であるからたとえ先生の息子であろうとも教えられぬと断った。

40.7.20(木)第二元講習第十回
 武田先生は自分の息子にも教えなかった。時宗は北海道で材木の切り出しをやっていたので力は強かった。講習には連れていったが、講習は夜なので昼間練習するのだが、時宗は力一杯掛かってゆき投げつけられ、技は覚えられなかった。先生もそのような態度の者には教えることをしなかった。

40.8.23(月)長田  8-9時 お話を伺う。
 大東流二千八百八十四手とは武田先生が常々言っていたからたいていの人が知っている。しかし私が数えたのは三千くらいあり、まだまだ無限と言える。これは合気があるからである。

 一日に二十手も出されると殆ど覚えることが出来ないものである。私は子供の時からやっていたので覚える事が出来た。それも父と一緒に研究したからで、一人だったら合気は判らなかったかもしれない。二十二才のころ両手捕りを合気で投げることが出来たが、今から考えると不十分なもので、掛かる者と掛からない者があった。力を抜くということが判らなかった為だ。

40.10.31(日)
  十時鯉釣りに行く約束で先生宅に伺うも雨のため中止、お話を伺う。

 「出る」ということを基本として考えてゆけばよい。わしの幼少の頃、武田先生が大人達に話すのを聞いて分かった。しかしそれも説明は詳しいものではなく「勝負三本、、出る」という程度の話であった。

41.2.17(木) 高杉、長田、小野
 武田惣角先生には講習講習で習っているので通算すれば四年間くらいしか習っていない。習おうとするのでなく自分で考え出すのでなければ身に付かぬ。武田惣角先生は今の私と違い手数は多く見せたが一度示すだけなのでほとんどの人は覚えていない。函館の浜野甚五郎という網元は三年間家に留めて個人稽古を受けたがほとんど覚えていなか
った。
 わし(当時三十二、三才)が来たより柔道道場を巡り歩いた時、最初仙台駅前の佐藤という福島工専の柔道教師の小さい道場に行った。先ずわしが出て五段の男を投げ、次に宗三郎に四ヶ条の掴み手で投げよと教えてやらせた。それが宗三郎の最初の他流試合だと思う。

42.1.6(金) 午後5時45分恒例の新年御挨拶  田口、井上定、若林
 先生は全く変わった方で、大阪の東京日々新聞社に講習に行ったときは、耳の遠いこともあって新聞社の人が付き添いのわしに「あの先生は気が狂っているのでないですか」と聞いたものだ。

42.1.6 恒例の新年御挨拶
 父は自宅に十八条の道場を作り、武田先生を家族ごと招いて教わった。

 父が会ったのが五十才。当時は朝風呂を湧かして先生を入れ、後先生の許可があるまで誰も入れなかった。ここで男子(武宗)が生まれたが後に死亡した。

 三男の時宗にすれ違い様短刀で腕に切り付け肩に傷を負わしたことがある。

1967.1.6
 わしの言うとおりに技を使っていればその意味も解ってくる。たとえば巻き捕りで片手より諸手の方が初心者でも掛かりやすい。これは敵の上の手を横から肘で上げ崩しているから効くのであって、この点がポイントである。

43.9.6 変更の鍛錬
 足が重い。練習不足である。わしなど数万回、数十万回やった結果体ができ、今でも毎日数千回の練習を絶やさぬ位である。これを鍛えず上達は不可能である。

 力が要らなくなるのは技が枯れきってからである。わしでも若い頃は力まかせに掛けたもので、弟子は稽古を恐れていたものだ。やはり力を入れるべきところでは充分に入れて掛けねばならぬ。

46.5.10 敵を崩すこと。
 崩していなければ、わしでも敵を抑えることはできない。

46.7.17
 わしも初めは力で掛けていた。初めから上手であるわけがない。その時々になぜ掛からぬか研究して段々に巧くなったものである。

46.7.23
わしが体を作ったのは腕立てによってである。十代の頃から一日千五百回を鍛錬した。

それによって体が一本になることが可能になった。腕立てに限らず一つの運動を少なくとも三年は続けることが重要である。たとえば素振り。

46.8.6
 先師は非常に徹底する方で、わしの家に居たときカルメラ焼きの道具を手に入れると一晩中作り続けて、次の日の朝プッときれいに出来るようになると、それっきり止めてしまわれた。父の一つ話であった。

 わしが先生を訪ねたとき、道場の練習を見ながら桑の白木の盆を茶殻で磨いていたが、そのまま二晩三日磨き続けて、きれいに光り出すとそこで止めて、二度と手に取ろうとしなかった。
このように徹底することが大事。

46.8.8
 わしが片手打ちで武田先生の真似ができないと言っているのは、裏を返せばその他の技では自信がある、ということである。師と同じ技が出来なくてもそれに変わる得意技を身につけていなければならない。同じことが出来るものではない。個々の技もみな自分で自分のものにするのである。(担技は惣角先生が得意)

 このように聞き書きは、佐川先生の言葉を稽古後すぐにノートにそのまま書きとめたものである。
 よって『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』の記述は、吉丸慶雪の信用を毀損している。 



続く


  高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』批判-6
                                     
             22.4.24  吉丸慶雪
6.堀川幸道師範への冒涜

 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.136

◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆ 高橋 賢

 後に、幸道会を開いた堀川幸道師範は、主として武田先師の実父・堀川泰宗師範から大東流を習っていたが、一ヶ条などの基本技から構成されている大東流の技法体系をよく知らず、常々疑問に思っていた。
 近くに寄った佐川先生が、、、、、、さらに先生は、つかんだ手を離さずに前後左右に続けざまに投げ倒すと、堀川師範は実力の差にがっくりとうなだれた。真剣に大東流の技法体系を学びたいと思った同師範は、その場で先生に入門を願い出た。この真摯な態度に、入門を許した先生は、堀川師範が知らなかった一ヶ条、四方投げなどの大東流の基本技と、凶器捕りの初歩の技を伝受し、同師範は門人として英明録に自ら署名した。


1.「一ヶ条などの基本技から構成されている大東流の技法体系をよく知らず、」という文章も悪意がある。「一ヶ条も知らず」と誘導し、堀川先生を愚弄している。
 「一ヶ条などの基本技から構成されている大東流の技法体系をよく知らず、常々疑問に思っていた。」それは堀川幸道先生が「よく知らず」「常々疑問に思っていた」など、これは憶測ではないいか。

2.それより「さらに先生のは、掴んだ手を離さず、、、、、英明録を自ら署名した。」という文章では、これは単なる小説である。
 「180センチを超す巨漢を赤子をひねるように投げる」「巨漢をつぶす」と小説に吉丸が登場するのも同じ手口である。

 佐川先生と堀川先生との二人、つまり密室で、この挿話は藪の中である。これは死人に口なしで、そうした挿話を公表するのは公正ではない。更にそうした挿話に写真を使うのは、堀川先生の名誉を毀損している

 佐川幸義先生聞き書き        吉丸慶雪 40.3.21(日)小野、細谷、小川宏

 その頃まで師は、先師の弟子すべてを技で抑え付けて真の大東流を教え、統一しようという気持ちがあったらしいが、武田時宗氏が和をもって統合し、自分で宗家をやりたいという意向であったので、以来師はその様な者には真の技は伝えぬと決心したらしい。北海道の堀川という先師の直弟子でも四方投後変更しか知らず、佐川師に是非習いたいと言っているのに、先師の弟子に教えるのは僭越だと言う様なことを言うので、師は教える気持ちが無くなった。

ということで佐川先生は堀川先生を弟子に取っていない。

3.佐川先生の英明録には「二日間御教授を受けました。」とあるが、門人として署名したものではない。昭和40年3月21日条に「先師の弟子に教えるのは僭越(時宗先生)が言うので、教える気持ちが無くなった。」つまり「教える気持ちが無くなった」から入門はしていない、のである。
 昭和50年以前はそうした認識であった。
 ところが、下記、

 
 「佐川敬行様 木村達雄先生宛                          平成18年7月15日 吉丸慶雪書簡

 当時、堀川幸道先生について教えたこと(1日だけ)は言っていたのですが、「弟子だ」とは言っていませんでした。(中略)

 ところが実行した馬鹿な弟子がいて、(これは1981先後)堀川一門の岡本正剛先生が教えているところに佐川先生の弟子という者が2.3人ドヤドヤ入り、「貴方は堀川の弟子だから、佐川先生に挨拶してから教えよ」と言ったらしいのです。ヤクザの縄張り争いの言いぐさです。
 これを聞いて、、、(中略)
 岡本先生は佐川先生に対し「私は堀川先生に佐川先生の弟子とは聞いていません。佐川先生はどのような躾けを弟子にしているのでしょうか。」という書簡を出しました。しかし佐川先生からの返事はなかったそうです。
 というのは私は大崎体育館の柔道場を共同で使っていたので岡本先生と面識があり、この件を直接聞いています。私は大東流のことを隠して付き合っていたのですが、これを聞いて恥ずかしい思いをしました。またこの件は、業界内の佐川道場の評価を落としています。」

 ということで堀川先生を貶めて佐川先生を神格化する目的の単なるプロパガンダであるとしか思えないのである。
 これは堀川幸道先生の名誉を毀損している。

さらに堀川泰宗について

高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.218 

◆佐川少年と武田先師の出会い◆ 高橋 賢

佐川先生の御尊父・佐川子之吉先生は、北海道北見の国湧別て事業を手広く営む町の名士であり、村会議員でもあった。大正初年、子之吉先生はたまたま湧別の名士を集めて開かれた武田先師の講習会を受けた。 しかし、講習が続くうちに受講希望者が集まらなくなってきた。

 大東流の歴史に湧別の堀川泰宗の名前がスルーされているのは公正ではない。下記のように、

佐川幸義先生聞き書き         吉丸慶雪  40.11.3(火) 田口、若林、目黒、渡辺他 

 北海道で大東流が盛んになったのは大正2年頃、湧別の堀川泰宗(当時52.3才)が汽車で武田惣角先生と乗り合わせた。その時先生は警察署を講習指導のため行くところだった。いろいろ雑談の末別れる時に近くにでもいらっしゃったらお寄り下さい位のことを言っておいた。
 するとある日先生が突然湧別に尋ねてきたので、堀川は父らを集めて講習会を開き、これが北海道で合気が広まる機縁となった。この時父が50才、武田先生が55才、今生きていれば百七才になる。この頃の講習料は十日間で十円であった。
佐川幸義先生聞き書き                 45.1.9 年頭のご挨拶に伺う。田口、井上、若林

1.大東流が北海道に始めて伝わったこと。
 大正二年、当時名寄までしか汽車が無く、名寄から馬に乗って三時間ばかりのオホツク沿岸に湧別があった。そこで旅館をしていた堀川泰宗が札幌の警察部に指導に来ていた武田惣角先生とたまたま汽車で乗り合わせ、いろいろ話している内に大東流師範という名詞を貰い、手を掴まれるとしびれて動けなかったので驚いて、ついでがあればお寄り下さるようにと話して置いた。

 その時は小さくて山高帽をかぶった異様な人物という印象だったという。それから四五ヶ月経ったときにヒョッコリ先生が尋ねてきたので村の有志を集め、わしの父にも話があり、いまさらやわらでもあるまいと言ったのだが、見るだけでも見たらよいというので参加した。

 するとカンゼヨリを作ってその先を持たせ、持つと同時に肩に担がれてしまったので非常に驚いた。それから両手を後ろで縛ってどこからでも掛かって来いというので皆後ろから組み付いたりしたが投げ飛ばされてしまった。父はそれなら前から足をつかまえよう出て行くと、途端に背中を抑えられて這いつくばり、一番格好が悪かったと後々までも話していた。大正2年のことである。
  

 このように大東流の歴史において堀川泰宗の名前が欠落するのは公正ではない。このように堀川泰宗を無視し、堀川幸道を貶め、佐川先生だけを持ち上げる、その『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』は、単なるプロパガンダに過ぎなくなってしまうのである。



続く

 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』批判-5
                                     
             22.3.28 吉丸慶雪

 5.植芝盛平先生への冒涜

高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.136

 ◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆ 高橋 賢

 戦後、大東流の基本技と合気投げの技法を中心に教える合気道を創始した植芝盛平師範は、吉田師範の勧めで武田先師に入門した。戦前、吉田師範が植芝師範の道場(新宿区若松町)を訪ねた時のことである。当時、植芝門下にはCという力自慢がいた。Cを指導しようと、吉田師範は両手首をつかませたものの、Cの手をどうしても上げることができない。植芝師範を訪ねられた佐川先生は、得意気な植芝師範からたまたまこの話を耳にして、「これはいかん。このまま放っておいては大東流の名誉にかかわる」と懸念した。
 そこで先生は、道場にいたCを両手をつかませた。怪力で知られたCは満身の力を込めて先生の手を押さえようとするももの、先生は涼しい顔をしながら合気揚げで簡単に崩して、投げてしまった。 逆に、先生が両手首を押さえると、Cがうんうん唸りながら先生の両手を上げようとするのだが、先生の身体は磐石のごとくビクともしない。
 力尽きCは「もの凄い力ですね」と溜め息をついた。 (高橋 賢) 

 「大東流の基本技と合気投げの技法を中心に教える合気道」という言葉には、つまり奥の技法を知らない・五ヶ条も知らないというイメージを読者に誘導している。植芝師範という言葉も、合気道の創始者に対する冒涜である。普通の人なら、植芝翁とか植芝先生とか敬意を持つのまではないか。これは植芝師範を軽んじて、佐川先生を持ち上げる手口は悪質である。

 力尽きたCは「もの凄い力ですね」と溜息をついた。これはあり得ない。傍証。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪  39.11.15

 昭和二十七年頃植芝を訪ねた時、さすがに上げてご馳走してくれたが、その時でもわしのこの小指位の大きさで、丁度小川君(宏、手が小さい)の様な手をしていたが、あれでは掴み手など出来るものではない。わしの父は植芝の先輩になるが、いつも植芝の大法螺吹きが法螺を吹き当てた、と言っていた。

 遠軽の植芝の土地は小さなものだったが家と小屋があった。それを武田先生は植芝がくれたものだと言っていた。植芝を訪ねた時、植芝に言わせると、植芝が父の病気で内地に帰るとき、印と委任状を置いてゆけと先生に言われ、そのまま取られてしまったのだと言っていた。

 42.1.6(金) 午後5時45分 恒例の新年御挨拶 田口、井上定、若林

 植芝の指は細く短く女の手のようで、あれでは合気は出来ぬ。先師は五尺に足らぬ背丈でありながら小指でも私の薬指くらい太く、小手は非常に太く発達していた。

 佐川先生が植芝先生の道場に行ったのは1度だけである。
 昭和39年11月15日条では上記のところである。昭和36年から50年まで、植芝先生の話は5.6回くらいであるが、道場に行った話は1度だけであった。

 その道場で、Cつまり湯川先生を両手をつかませた、ということはありえない。上記の日記に無いということが傍証になる。
 つまり植芝先生について一番大きい話題は「わしのこの小指位の大きさで、あれでは掴み手など出来るものではない。」であり、昭和42年1月6日条では「植芝の小指は細く短く女の手のようで、あれでは合気は出来ぬ。」とあり、2回とも佐川先生の関心は手の形にあった。

 もし怪力で知られた湯川先生が満身の力を込めて佐川先生の両手を押さえたとし、それを簡単に崩し、投げた、などという事件があれば、我々にこの話を一番に語り、幾度でも語るのではないか。
 とにかくこの話は、佐川道場がメディアに登場した後の話であり、吉丸としては初耳であった。
 さらに「このまま放っておいては大東流の名誉にかかわる」というが、植芝先生も大東流師範、佐川先生も大東流師範であり、大東流の名誉云々とは関係はない。

 それに、これが本当であれば、佐川先生は常識が無く不作法な人物になってしまうではないか。
 もし佐川先生が20歳も上の先輩の植芝先生の道場に行き、勝手にその弟子に掴ませて投げるなどをすれば、昔から決闘になる。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪  48.11.6

 吉田幸太郎はオッチョコチョイで、植芝の道場に行った時、弟子の湯川というのに手を持たせて動けなかった。後で植芝が話していた。
  42.1.6(金)午後5時45分 恒例の新年御挨拶 田口、井上定、若林 

 遠軽の久田旅館で講習会を開いていた武田惣角先生についていた吉田幸太郎(植芝と同年)が植芝にすすめて講習に加えた。植芝が稽古着を着る時に肩を怒らせて生意気な態度であったので先生は三元(三ヶ条)で締め上げた。先生によると植芝は「ガンのような涙を出して」抑えられたということである。
 41.2.10
 植芝が習ったのは大正四年で、吉田幸太郎と同じ歳だから数えで三十三歳だった。父が習ったのが大正二年だった。

42.1.6(金)
 昭和の初年、武田先生が合気の記念碑を建てると言って寄付をつのったことがあった。(結局建たなかった)佐川先生は一千円寄付し、他には北海道の網元某氏が千円か二千円、これが筆頭であとは二三百円から百円が殆どだった。この時植芝にも連絡があったが、植芝の娘から父は病気であまりやっていないからと断りの返事があって武田先生は怒り、破門するというようなことを言った。その後吉田幸太郎が若松町の道場に植芝を訪ねたとき、門前で掃除をしていた弟子は居ると言ったのに、玄関で名詞を出すと細君が丁度留守ですと言って上にも上げず帰した。吉田は先のことで先生との間をとりなそうとして行ったのであったため大変怒り、以後植芝の悪口をひどく言っている。

 吉田先生は植芝先生の道場(若松町皇武館)に行った時、弟子の湯川先生に手を持たせて動けなかった、という事実はある。
 しかし遠軽の久田旅館で講習会を開いていたとき、植芝先生に吉田先生が勧めた、という関係で、しかも同年であるからこれは友達の関係であった。だから友達の弟子の湯川に手を掴まえさせたら上げることが出来なかったという笑い話であり、吉田幸太郎はオッチョコチョイだと言っただけのことである。

 しかし単なる道場に行った事実を換骨奪胎して、得意気な植芝師範、大東流の名誉にかかわる、、道場にいたC、、、怪力で知られたCは満身の力、、、先生は涼しい顔をしながら、、というストーリーを創作するのは、植芝先生を貶めて佐川先生を神格化する行為であり、これはあまりに卑怯で悪質である。 特に得意気な植芝師範という言葉は悪質であり、植芝先生の名誉を毀損している。
 しかも佐川先生の品格に掛かわってくる。これは贔屓の引き倒しではないか。

 「得意気な植芝師範にたいして(佐川)先生は涼しい顔をしながら合気揚げ」という文章だけてでも、合気道開祖植芝盛平先生にたいする非礼であり名誉を毀損している。



続く


  高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』批判-4
                                     
             22.2.17 吉丸慶雪
                                                         22.3.2追補 吉丸慶雪
4.さらに吉田幸太郎先生・松田敏美先生への冒涜・奥山先生への冒涜

 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.135

 ◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆  高橋 賢

 突然、吉田師範は佐川先生を訪ねて、「某流のBが、大東流の影響を受けたことを隠し、独自に一流を打ち立てたと言っています。武田先生を侮っているのでどうか懲らしめてやって下さらないか」と懇願してきた。この侮辱は捨て置けないものと判断された先生が早速某流の道場を訪れると、すでにもぬけの殻だった。
 まもなくして、B師の師匠である松田敏美師範が慌てて先生を訪ね、「Bは私の弟子です。この度の御無礼はお詫びしますので、どうか御勘弁ください。」と、平謝りにあやまったという。

 松田師範がかつて武田先師から講習を受けた時は、助教を務めたのは、やはり佐川先生であった。先生に両手首をつかまれた同師範が合気揚げをしようとしても、先生の体勢は一向に崩れない。終いに、逆に払い腰を喰らい何度も投げられる羽目になった。
 松田師範はこの腰技に驚き、「合気も凄いが、柔道も高段者の達人に違いない」と驚嘆したのである。しかし松田師範が柔道の腰技と思い込んでいたのは、佐川先生が合気の理論に基づいて編み出した「合気腰技」であった。こんな経緯があり、同師範は先生の技量を早くから熟知していたのである。弟子のためにわざわざ北海道から東京まで飛んで謝罪に来た松田師範を目の前にした先生は、先師侮辱の一件は不問に付したのである。

1.「懲らしめてやって下さらないか」と懇願してきた。
2.某流の道場を訪れると、すでにもぬけの殻だった。
3.松田敏美師範が、、、、平謝りあやまったという。
4.松田師範がかつて武田先師から講習を受けた時は、助教を務めたのは、やはり佐川先生であった。
5.わざわざ北海道から東京まで飛んで謝罪に来た松田師範。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪  39.11.15

 八光流の奥山は松田の弟子で、武田先師に九日間習った。この帳面は佐川師が宗家を返したときに武田先生の長男に返した。

 八光流は大東流を盗んでいるというので吉田が訴訟問題にしようとしたことがある。昭和十七年に八光流はけしからんから一緒に行ってくれと吉田に頼まれ、数日間家に行ったがいつも逃げて会えなかった。吉田も一人で行けなかった位で大したことはない。現在八十才くらい。

1.吉田先生が「一緒に行ってくれ」という事実はあっても、『懲らしめて下さらないかと懇願』は創作ではないか。これにより吉田先生は卑小な人物に描き、これに対して佐川先生は凄いと読者に誘導しているのではないか。これも悪質である。 

2.もぬけの殻。
 『某流の道場』というのも卑怯である。本当なら堂々と八光流の道場と書けばよいのではないか。実際は道場ではなく普通の家であった。ただし佐川先生も学生の時に、下宿の入り口に「大東流合気柔術」という看板を掛けていたから、奥山先生も自宅に「八光流」の看板を掛けていたかも分からない。つまり現在のような立派な道場は無かった時代である。
 高橋氏の本は、読者に現在のような道場をイメージさせて、佐川先生が道場破りに乗り込むシーンを誘導しているのではないか。これも八光流並びに奥山先生に対し明らかな悪意がある。

 『もぬけの殻』という言葉は奥山先生を貶めるものである。そもそも「佐川先生が数日間家に行った」という事実はあっても、「いつも逃げていた」というのは佐川先生の主観である。たまたま家を留守にしていたかも分からないのを、これを逃げたというのは言いかがりではないか。

3.『B師の師匠である松田敏美師範』も卑怯である。松田敏美先生の名前が出るなら、読者はB師の名前を特定できるではないか。
 『松田敏美師範が、、、御勘弁ください。』これについて、これはあり得ない。なぜか、昭和十七年現在に佐川先生は大東流を統制する立場ではないので、松田先生は佐川先生に対して御勘弁してもらう理由がない。吉丸が佐川先生から聞いたところでは、私の弟子なのでよろしくという連絡があり、なんだ松田さんの弟子だと納得したそうである。

 だからわざわざ北海道から東京まで飛んで謝罪に来た松田師範というのはおかしな話であり不審である。

 したがって「松田敏美師範が、、、御勘弁ください。」というのは松田先生への悪質な侮辱ではないか。死人に口なし、卑怯ではないか。
 これは吉田幸太郎先生・松田敏美先生・奥山龍峰先生の名誉を毀損している。

さらに松田先生への冒涜
 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.135 

 ◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆  高橋 賢

 松田師範がかつて武田先師から講習を受けた時に、助教を務めたのは、やはり佐川先生であった。



 「松田師範がかつて武田先師から講習を受けた時に、助教を務めたのは、やはり佐川先生。」は悪質である。是は佐川道場の上層部しか知らないことで、「松田師範が武田先師から講習したとき、助教を務めたのは、やはり佐川先生。」はあり得ないことである。

傍証は下記である。
 奥山先生は武田惣角先生に9日間習った。この講習は惣角先生の家であった。このとき惣角先生と奥山先生と二人切りであり、時宗先生も立ち会いも出来なかった。奥山先生が部屋から出ると時宗先生が「どうですか」と聞くと、奥田先生は「痛いだけでなにも分かりません」と答えた。
これは時宗先生が佐川先生に言った話である。(吉丸慶雪) 

 大東流の歴史において、武田惣角先生への謝礼の問題は避けることはできない。武田惣角先生も大本教本部において1年指導をしているが、その謝礼を考えると膨大であったと想像できる。

 資料上の記録で武田惣角から大東流の免許皆伝を授けられた事の確認が取れているのは大阪朝日新聞社の道場にて教授を受けた久琢磨と利根館正雄の2名だけである。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この講習会には佐川先生も参加していたが、『透明の力』によると「仕事があったので帰った」とある。しかし実際は惣角先生が久琢磨先生に免許皆伝の講習するために佐川先生を帰したのである。

 『透明の力』には、久琢磨先生の免許皆伝について5千円という噂があった、と書いてあるが、その実相は、この講習会のあと武田先生が来て、幸義さんも5千円を出せば免許皆伝を出すよと言って、佐川先生もその気になったが、「父も居るし、、、」と考えて止めておいた、ということであった。
 考えてみれば、久琢磨先生、利根館先生の二人で5千円なのか、それとも久琢磨先生一人で5千円であったのか、これは分からない。

 しかし武田惣角先生への個人講習の謝礼は大金であるから、いくら上手い門人でも助教などありえないのである。免許皆伝の講習では子息の時宗先生は助教を務めている。 

 佐川先生の直伝でも四元からは助教はない。高橋氏はそうしたことを知っていなから助教など書くのは読者を欺く行為である。これは松田敏美先生の名誉を毀損している。




続く
 


  高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』批判-3
                                     
             22.1.11 吉丸慶雪
3.吉田幸太郎師範・松田敏美師範への冒涜

 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.134

 ◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆

 先生の指導を受けた師範たちはいずれも、先生の「合気の技」は精妙かつ峻烈であり、武田先師を凌駕していると、驚きの声を上げている。吉田幸太郎、松田敏美などの大東流の古い師範たちも、先生の前では子ども同然であり、彼らは先生の技量には深く敬意を表していた。

 吉田師範にはこんなエピソードが残っている。武田先師が吉田師範に講習する際に助教を務めていた佐川先生が同師範のために復習の相手をしていた時の話である。自分が年長であることから、吉田師範は先生に対して尊大な態度をとり続けていたのだが、、、


1.「先生の指導を受けた師範たちはいずれも、」の問題
2.「吉田幸太郎、松田敏美などの大東流の古い師範たちも、先生の前では子ども同然」の問題
3.「武田先師が吉田師範に講習する際に佐川先生が助教」の問題

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

  40.9.27(月)松田、小野、長田、桑原
 
 大正当時、一ヶ条を十日間講習で十円、後に一週間講習で十円であった。三ヶ条まで三十日やると巻物が貰えた。今は無くした人が多いと思う。

 大正時代、一ヶ条を十日で講習した。技法はやく50ヶ条である。吉丸でも週に3日通い1元(1ヶ条)を習うのに1年掛かっている。現在は、普通の人は道場に通うのは週に1日で、初段には1年では無理である。
 さて講習費は十円であるから現在では少なくとも10~20万円、これでは若い人が習うのは無理である。だから「湧別の名士を集めて開かれた武田先師の講習会」であった。

 この講習費10~20万円のために大東流の技数が多かった。だから「三十日やると巻物が貰えた」が、悪く言うと素人にすぎなかった。それに対して「先生の指導を受けた師範たちがいずれも、先生の「合気の技」を精妙かつ峻烈」というのは欺瞞ではないか。

 従って素人同然の「免状持ち」と、吉田幸太郎先生・松田敏美先生とを並び「先生の前では子ども同然である」とは書きすぎであり欺瞞である。吉田先生・松田先生も「先生の技量には深く敬意を表していた」というのは高橋氏の良くいえば主観、悪くいえばウソで、これを公開するのは悪質ではないか。したがって吉田先生・松田先生への冒涜は明らかであり、吉田先生・松田先生の名誉を毀損している。


 さらに吉田幸太郎師範への冒涜

 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.134

 吉田師範にはこんなエピソードが残っている。武田先師が吉田師範に講習する際に助教を務めていた佐川先生が同師範のために復習の相手をしていた時の話である。自分が年長であることから、吉田師範は先生に対して尊大な態度をとり続けていたのだが、、、
 

 まず「武田先師が吉田師範に講習する際に佐川先生が助教」という話は、普通の佐川道場の生徒は知らないが、上層部(四元以上)なら知っている。これを隠すのは読者を欺くことであり悪質である。

 まず吉田先生は武田先師の個人講習を受けていないという証明は下記の通り。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

40.10.28(木)長田、小野

 吉田幸太郎はそれ程やっていない。というのは講習で教えたので十日間で十円取った。吉田はあまり金が無かったので、講習会を作ってはそれについていって習った。勿論その時には吉田も十円払わなければならなかった。当時吉田は四十才くらいだったが、宗三郎を背負ってオムツの洗濯など良く尽くしていた。しかしその様な講習会では決して上の手は見せず、せいぜい三ヶ条までの繰り返しであった。
 
  佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

39.5.2(土) 夜、井上

 吉田幸太郎が院外団で武田先生に貰った鉄扇を持っていて、頭を打たれて笑い話になったことがある。吉田は三十五六歳より内弟子のようにして習った。遠軽で植芝にすすめて習わせた。
 当時は長く習っても上の手を教えないので上達はしない。

 佐川先生の話では、「吉田はあまり金が無かったので、講習会を作ってはそれについていって習った。勿論その時には吉田も十円払わなければならなかった。しかしその様な講習会では決して上の手は見せず、せいぜい三ヶ条までの繰り返しであった。」ということである。

 つまり吉田幸太郎先生は武田先師の個人講習を受けていない。したがって佐川先生は助教はしていない。
 しかも「吉田師範は先生に対して尊大な態度をとり続けていたのだが、」というのは高橋氏の頭の中にしかなく、これは吉田先生への侮辱であり名誉を毀損している。

 続く


  高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』批判-2
                                     
             21.12..31 吉丸慶雪
2.柔道家 ×藤一三9段への冒涜 

 高橋賢著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」P.133

  ◆柔道家A九段を瞬時に極め倒す◆

 戦後における佐川先生の武勇伝として挙げておきたいのは、柔道家A師範(九段)とのに試合である。指導のために警察大学を訪れた先生は、その教官であったA師範をひと捻りて下している。
 東京高等師範学校出身のA師範は大入道のような巨体を誇っていた。A師範が繰り出す左払い腰と釣込み腰の豪快さには定評があったももの、佐川先生にいきなり手首をつかまれただけで、身動きがとれなくなり、先生の足元に極め倒されてしまったのである。
 
1.柔道家を投げた話も伝わっていますが、しかし道場や講習会でのことであり、相手の柔道家がどれだけ本気を出していたか?先生、弟子を前に本気を出せる雰囲気があったのか?またもしくは大東流の指導を受けている延長で投げられたのか?その柔道家のレベルは?どの柔道家に対しても出来るのか?本当に自由に攻撃してきても出来るのか?よくわからずはなはだ疑問です。確かなのは弟子相手の限定的な攻撃に対処する話ばかりだったということです。
(『BGILOGEなんでも相談室 大東流合気柔術の佐川道場について』より抜粋)

2.つまり昭和27年に警察大学校に逮捕術の指導に行き×藤九段がいたという事実はある。しかしその「事実」から、①「戦後における佐川先生の武勇伝は、柔道家A九段の試合」になるのか。②「東京高等師範学校出身のA師範は大入道のような巨体を誇っていた、A師範が繰り出す左払い腰と釣込み腰の豪快さには定評があったももの、」と「先生の足元に極め倒さされていまったのである。」とは関係ないではないか。
 これでは「事実」ではなく小説である。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

46.1.10(日) 道場開き 二十名

 昭和二十七年×月に警察大学校に指導に行った時に×籐一三十段(記録のまま)と○○六段という者が居た。×藤は三元掴み手で掴むと直ぐ倒れてしまった。そして掴み手だけ教えてくれというので教えたが、出来るものではない。

 ○○という男は腕を担ぐと曲げて頑張ったので直ちに腕をからんで倒した。担いだときは腕を曲げて頑張るということは分かっているので予定の行動である。
 そのときは三十人位に稽古を付けた。
佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

42.1.6(金) 午後5時45分 恒例の新年御挨拶
              田口、井上定、若林
 
 私が教えに行くときは一人である。北海道で全道の警察の逮捕術の講習をやった時は五段以上を集め、先ず一番強そうな者に「出なさい」といってやった。その時は二瓶という六段で六尺五寸だったが、先ず両手を三元で(掴み手)取り四方投を掛け、続いて二・三回投げ、それから始めた。
 一人だから真剣である。中には力を入れたり色々する者が居るので常に真剣の覚悟でいなければならない。会津の警察の講習では先師の免状を持った人が二三人来たが、武田先生より素晴らしいと言っていた。合気で投げつける技では進歩しているかも知れぬ。
 しかし先師の場合は座敷の稽古であって道場ではないからころがす程度で、あまり派手に見えなかったということもある。
 

 高橋氏の文章は柔道家A師範(×藤九段)に対する冒涜であり名誉を毀損しており、柔道家A師範(×藤九段)を貶めることにより佐川先生の神格化を講ずるための小説である。

続く


 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』批判 
                                                21.12.23   吉丸慶雪

 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』の性格を案ずるに、これは佐川先生のプロパガンダ(宣伝行為)であり、そのため「ある事実」を針小棒大に取り上げ、しかも「死人に口なし」であり「某,某」の連続であり、他を貶めることにより佐川先生を神格化しているが、この手口は卑怯である。
 その一環として◆身長180センチを超す巨漢を赤子の手をひねるように投げる◆、◆巨漢の突き・蹴りを瞬間につぶす◆という全く架空の小説に、吉丸の名前と新年会の私的な写真を承諾も無く使っているのは特に悪質である。


1.武田惣角先生に対する冒涜
高橋賢著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」P.125

 体勢がほとんど崩されておらず、惣角先師の合気が効いていないことがよく分かる。この人物こそ、佐川先生である。、、、佐川先生には、先師の左手による合気が効かなかった。しかし、公の場で師匠の技がからないと非礼である。とっさに気転を効いた先生は、合気が効いていないことを承知で、両手で先師の左手首をつかんだまま、そのに場に正座して体勢を崩された振りをしたわけだ。 

 公の場で師匠の技がかからないと非礼であるという。では公表の出版で、師匠の技が掛かってないかったと公表するのは、まさに非礼ではないか。
 つまり武田先師を貶めてこれにより佐川先生を神格化する、これは単なるプロパガンダではないか。

 高橋賢著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」P.125

 佐川先生の奥様も御存命中、講習の折に先生に合気を効かせられずに四苦八苦した武田先師をすぐにそばで見ていたという貴重な目撃談を話して下さったことがある。 

高橋賢著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」P.208

 ◆従来の大東流の「多数捕り合気」の欠点◆

 実は、合気之術の′創始者′である武田先師でも、佐川先生に対しては「諸手捕りの合気」をかけることができなかった。昭和7年、先生が北海道・札幌の御自宅に武田先師を迎えて、朝昼晩と講習を受けたときのことである。先生を相手に「力いっぱい、つかみさっしょ!(つかみなさい)」と、諸手捕りの合気を見せようとしたところ、先生が腕を思い切りつかんだために、先師はつかまれた手を返すことができず、合気がうまくかからなかったのである。青年期の先生には、すでに恩師を超えるほどの技量が備わっていたのだ。
 稽古後、風呂から上がり、肩を手拭いをのせたままの武田先師はよほど悔しかったのだろう。「もう一度、もう一度!」と、再び先生相手に諸手捕りの合気をかけようとした。それでも先師の合気は効かなかったのであるが、先生は恩師に恥をかかせてはならないと思い、結局わざと合気にかかったと見せかけてその場を納められた。
 このエピソードは、このやり取りをちょうど目撃されていた先生の奥様からお聞きしたものだ。「ウチのお父さん、意地悪なのよ。武田先生がうんうん唸っているのに、技にかかってあげないんだから」と語られる奥様の傍らで、先生が懐かしそうに微笑まれていたことを記憶している。

 この挿話は矛盾がある。
1.講習をなぜ奥様が見ているのか?
2.朝昼晩も講習するのになぜ「諸手捕りの合気」(初級技)なのか?
3.さらに「合気を効かせられずに四苦八苦・武田先師はよほど悔しい」とは高橋氏の憶測にすぎない。

 真相は下記の通りで講習ではなかったのである。

  佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪  49.1.11 道場開き

 昭和10年の12月の暮れに武田惣角先生がこられた。このとき免状を貰ったのでよく覚えているが、正月であるので帰ってもらうことになった。今考えると惜しい事をした。そのとき免状をあげると言っておきながら荷造りを始めそのまま帰る気配であったので、先生が力を入れて持てというので諸手でぐっと持ち全然動かさなかった。
 武田先生の「諸手捕」合気は分かっていた。「手を返し上手の方に体を寄せる」のがそのコツである。先生は風呂に入り、出てきてからまた持てといったので適当に転んで終わりにした。

 つまり「諸手捕りで動かすことができなかった」という実事はあるが、これを針小棒大に取り上げ先師を貶めることにより佐川先生の神格化に資している。「荷造りを始めそのまま帰る気配であったので」と佐川先生が言っているではないか。
 佐川先生も軽い気持ちで私に惣角先生の挿話を話しているが、高橋氏の文章になると「合気を効かせられずに四苦八苦・武田先師はよほど悔しい・武田先生がうんうん唸っている」となり、これは武田先師への非礼・冒涜である。

続く



 高橋 賢著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』を読む 
                                                  21.11.19  感想 吉丸慶雪

 高橋氏は著名な武道史研究家であるから、『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』は読者としては客観的な事実に基づく文章を期待したが、これは裏切るものであった。

 まず読んで考えるのは「エセ合気」が横行、「エセ武術家」が注目される武術界の風潮、慌てて登場したエセ合気の数々、というような言葉は違和感を持つものであった。
もし佐川道場の中に、口の汚い、他流、他派の批判、エセ合気、エセ武術家などという下品な文化があるならば、せめて道場内にしておいて、世間には隠すものではないか。これが高橋氏の考えであれば、これは佐川先生の品格を墜とすものではないかと危惧するものであった。

「佐川先生の合気が世の中に初めて公開」したと言っても、写真と記事では、我々は「真の合気」とエセ合気の区別は分からない。せめて佐川道場の合気の理論、技法を、映像で高橋先生が解説することを切にお願いするものである。

さて、改めて読んで見るとこの文章は極めて巧く、文学作品として一流と思う。が佐川幸義先生伝には違和感がある。
   ◆慌てて登場したエセ合気の数々◆

 大東流より派生した合気道某会の幹部が、佐川先生の記事が掲載された「月刊空手道」のバックナンバーを重要な資料として、秘かに出向き注文したこと、某会合気道の大物師範の子息が佐川先生の技が見たくて接触してきたこと、大東流某派某流合気道の後継者が佐川道場に入門したことなどからも、先生の合気は武術界に与えた影響がいかに大きかったかがうかがえる。
秘かに出向き注文した!!! どうして分かった???
見たくて接触してきた!! 秘かに???
某流合気道の後継者が佐川道場に入門。




  ◆「合気之術」の唯一人体得◆    
 武田惣角先師は教授するにあたって、「合気」についてはもちろん、技の用法なついても解説することが一切なかった。
 惣角先師の門下生は3万人いたと言われながら、佐川幸義先生を除いて、 「合気」の秘密を解き明かした者は現れなったのもうなずける。  
 弱冠17歳にして、「合気」の原理を発見した先生は、「合気」の研究をさらに深めならが惣角先師をはるかに超える「合気」にまで進化させたのである。 

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

41.5.2
 十七八の頃、上げ手に苦労した。腕がだるくなるくらい練習し、その後カンで上げることが出来るようになったが、理は分からなかった

41.7.1
 わしも若い頃は三元四元の掴み手三元の胸捕専門だった

42.2.22(水)高杉、千葉
 わしの三十代、免許皆伝を貰ってからも力の抜き方理ははっきり覚っていなかった教えていて段々覚ってきたもので、工夫することが重要である

40.6.28
 このように技で出来るようになったのはやはり四十代で、三十代は今考えると力であった。大東流も初めは捻ったりする手で、巻き捕りのような投げの型は無かった、とのこと。




 ◆佐川少年と武田先師の手会い◆ 高橋 賢

 佐川先生の御尊父・佐川子之吉先生は、北海道北見の国湧別て事業を手広く営む町の名士であり、村会議員でもあった。大正初年、子之吉先生はたまたま湧別の名士を集めて開かれた武田先師の講習会を受けた。 しかし、講習が続くうちに受講希望者が集まらなくなってきた。 
★大東流の歴史に湧別の堀川泰宗の名前がスルーされているのは不審。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

40.11.3(火) 田口、若林、目黒、渡辺他 7時頃まで

 北海道で大東流が盛んになったのは大正2年頃、湧別の堀川泰宗(当時52.3才)が汽車で武田惣角先生と乗り合わせた。その時先生は警察署を講習指導のため行くところだった。いろいろ雑談の末別れる時に近くにでもいらっしゃったらお寄り下さい位のことを言ったおいた。
 するとある日先生が突然湧別に尋ねてきたので、堀川は父らを集めて講習会を開き、これが北海道で合気が広まる機縁となった。この時父が50才、武田先生が55才、今生きていれば百七才になる。

 この頃の講習料は十日間で十円であった。

 その堀川の息子が湧別で道場を開いているのを行って見たが、四方投でも後変更しかやっていない。合気も全然判っていなかった。そして合気技を見せると是非指導して頂きたいと頼まれた。
★大正時代の10円は現在では20~25万円位か?

 45.1.9 年頭のご挨拶に伺う。田口、井上、若林

1.大東流が北海道に始めて伝わったこと。
 大正二年、当時名寄までしか汽車が無く、名寄から馬に乗って三時間ばかりのオホーツク沿岸に湧別があった。そこで旅館をしていた堀川泰宗札幌の警察部に指導に来ていた武田惣角先生とたまたま汽車で乗り合わせ、いろいろ話している内に大東流師範という名詞を貰い、手を掴まれるとしびれて動けなかったので驚いて、ついでがあればお寄り下さるようにと話して置いた。

 その時は小さくて山高帽をかぶった異様な人物という印象だったという。それから四五ヶ月経ったときにヒョッコリ先生が尋ねてきたので村の有志を集め、わしの父にも話があり、いまさらやわらでもあるまいと言ったのだが、見るだけでも見たらよいというので参加した。

 とるとカンゼヨリを作ってその先を持たせ、持つと同時に肩に担がれてしまったので非常に驚いた。それから両手を後ろで縛ってどこからでも掛かって来いというので皆後ろから組み付いたりしたが投げ飛ばされてしまった。父はそれなら前から足をつかまえよう出て行くと、途端に背中を抑えられて這いつくばり、一番格好が悪かったと後々までも話していた。大正2年のことである。

 40.9.27(月)松田、小野、長田、桑原
 武田先師は西郷頼母の弟子で、竹刀と道具を持って道場を廻って歩いた。
 榊原健吉の道場にも寄ったことがあり、帖面に書いてもらってある。

 先師の回りには殺気がうづ巻いているような感じがあった。全く隙の無い態度であって膝を崩していることはなかった。他家では戸を開けるときでも必ず左右を確かめて進んでいた。宿屋では必ず細引きを用意して引き口を見極めていた。
 大正当時、一ヶ条を十日間講習で十円、後に一週間講習で十円であった。三ヶ条まで三十日やると巻物が貰えた。今は無くした人が多いと思う。

 わしの家では父が十八畳の道場を建て、それに増築して先生の家族を養い三年間仕えた。その間、先生の奥さんは居るのに三度三度の食事を届けた上、月に百円のお礼を差し上げた。父は朝夕の二回習った。(大正年間)

 後昭和7.8年頃には一ヶ月ほど来ていただいて習うのに二百五十円くらいのお礼であった。先生はそれで山などを買われていた。それは池のある山でわしが行くと小刀を腰に差して行き、わしには魚を釣れと言って自分は木に登り、小刀で木を切ったりしていた。昭和十三年ころである。当時八十才くらいで、そのころ街の風呂屋では先生が入ってくると皆逃げ出したものである。
★大正年間、月に百円は、現在では200万円~250万円位か?
★昭和13年ころは佐川先生は37歳、惣角先生はやく80歳、この話は先生の記憶のママ。


 40.10.28(木)長田、小野

 吉田幸太郎はそれ程やっていない。というのは講習で教えたので十日間で十円取った吉田はあまり金が無かったので、講習会を作ってはそれについていって習った。勿論その時には吉田も十円払わなければならなかった。当時吉田は四十才くらいだったが、宗三郎を背負ってオムツの洗濯など良く尽くしていた。しかしその様な講習会では決して上の手は見せず、せいぜい三ヶ条までの繰り返しであった
 41.4.14(木) 松田 ★松田隆智

 武田惣角先生は手を取らせることは絶対にしなかった。それでわしも武田先生の前ではこちらから掛けるだけの教え方をした。武田先生は「武士が手をとらせることがあるか」と言われていた。
      
 武田先生の教え方は一日に十五手くらい、打ってこさせてはこれはこうする、こちらかに来ればこうすると、二度づつ掛けるだけで説明などしたことは無い。そこで今教えている技の理も、わしがこうであろうと考えたものである。

39.11.15

 武田惣角先生の講習は八日か九日期間があるとすると一日に二十手くらい目先を変えて出すので、とても覚えられるものではない。しかも先生に教わるのにそう頑張るわけにもいかず、先生が違う足取りでごまかして掛けても掛かるので、そう全部を正確に覚えることは出来なかった。

39.3.21

 武田先生は講習の時に一度に二十手も三十手も出すのでなかなか覚えられるものではない。また覚えられないことはその人を見れば分かるから見せるのだ。
 41.2.10(木) 高杉、長田、小野

 三十才を過ぎた当時も、今考えれば力で技とは言えず、まことに危ないものであった。勿論奥の手は習っていた。合気の角度という様なことが判ったのは
昭和××年、武田先生と、、、 
 合気は判っていなかったが上げ手だけはどんなに力のある者でも力で上げることが出来た。それで一応力ででも抑え付けるという段階を通り抜けなければ技は会得出来ないものではないかと思う。
 46.8.6

 上げ手の鍛錬では後で腕が痛くて眠れないこともしばしばあったが、なおも上げているといくら上げても何ともなくなった。父が好きであったので二人で上げ手を徹底的にやり、これで体ができた。ただし心臓の悪い者は注意すること。
これでは庶民は大東流は無理!!!




  ◆「合気の術」を唯一人体得◆ 高橋 賢

「東京日日新聞社報」に掲載された「守衛諸君の武道錬磨」


 これとは対照的に、佐川先生には、先師の左手による合気が効かなかった。(略)
 佐川先生の奥様の御存命中、講習の折りに先生に合気が効かせらずに四苦八苦した武田先師をすぐそばで見ていたという貴重な目撃談を話して下さったことがある。
★東京日日新聞社の守衛向けに、奥様を同伴して武田先生の講習会に参加!!??

  ◆従来の大東流の「多数捕り合気」の欠点◆ 高橋 賢

 昭和7年、先生が北海道・札幌の御自宅に武田先師を迎えて、朝昼晩と講習を受けたときのことである。
 実は、合気之術の〝創始者″である武田先師でも、佐川先生に対しては「諸手捕りの合気をかけることができなかった。先生を相手に「力いっぱい、つかさっしょ!」と、諸手捕りの合気を見せようとしたところ、先生が腕を思い切り掴んだために、先師はつかまれた手を返すことができず、合気がうまくかからなかったのである。

 稽古後、風呂から上がり、肩に手拭をのせたままの武田先師はよほど悔しかったのだろう。「もう一度、もう一度!」と、再び先生相手に諸手捕りの合気をかけようとした。それでも、先師の合気は効かなかったのであるが、先生は恩師のに始めあるものは必ず終わりありかかせないと思い、結局わざと合気をかかってと見せかけてその場を納められた。
★よく惣角先生の心中が分かった!!!
★合気が効かせらずに四苦八苦した武田先師!!!


  佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

49.1.11 道場開き
 昭和10年の12月の暮れに武田惣角先生がこられた。このとき免状を貰ったのでよく覚えているが、正月であるので帰ってもらうことになった。今考えると惜しい事をした。そのとき免状を上げるといっておきながら荷造りを始めそのまま帰る気配であったので、先生が力を持てというので諸手でぐっと持ち全然動かさなかった。
 武田先生の「諸手捕」合気は分かっていた。「手を返し上手の方に体を寄せる」のがそのコツである。先生は風呂に入り、出てきてからまた持てといったので適当に転んで終わりにした。




  ◆従来の大東流の「多数捕りの合気」の欠点◆ 高橋 賢

 このエビソードは、このやり取りをちょうど目撃された先生の奥様からお聞きしたものだ。ウチのお父さん、意地悪なのよ。武田先生がうんうん唸っているのに、技がかかってあげないんだから」と語られる奥様の傍らで、先生の懐かしそうに微笑まれたことを記憶している。
合気が効かせらずに四苦八苦した武田先師をすぐそばで見ていたという(奥様の)貴重な(高橋氏の)目撃談!!!!
ウチのお父さん!!!!




   ◆柔道家A9段を瞬時に極め倒す◆ 高橋 賢

 戦後における佐川先生の武勇伝として挙げておきたいのは、柔道家A師範(9段)とのに試合である。指導のために警察大学を訪れた先生は、その教官であったA師範をひと稔りて下している。
 東京高等師範学校出身の大入道のような巨大を誇っていた。A師範が繰り出す左払い腰と釣込み腰の豪快さには定評があったものも、佐川先生にいきなり手首をつかまれただけで、身動きがとれなくなり、先生の下元に極め倒されたしまったのである。゜
★戦後における試合!!!

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

46.1.10(日) 道場開き 二十名

 昭和二十七年×月に警察大学校に指導に行くとき×籐一三十段と××六段という者が居た。×藤は三元掴み手で掴むと直ぐ倒れてしまった。そして掴み手だけ教えてくれというので教えたが、出来るものではない。

 ○○という男は腕を担ぐと曲げて頑張ったので直ちに腕をからんで倒した。担いだときは腕を曲げて頑張るということは分かっているので予定の行動である。
そのときは三十人くらいに稽古を付けた。
 私が教えに行くときは一人である。北海道で全道の警察の逮捕術の講習をやった時は五段以上を集め、先ず一番強そうな者に「出なさい」と行ってやった。その時は五段以上を集め、先ず一番強そうな者に「出なさい」と行ってやった。その時は二瓶という六段で六尺五寸だったが、先ず両手を三元で(掴み手)取り四方投を掛け、続いて十二・三回投げ、それから始めた。
 一人だから真剣である。中には力を入れたり色々する者が居るので常に真剣の覚悟でいなければならない。会津の警察の講習では先師の免状を持った人が二三人来たが、武田先生より素晴らしいと言っていた。合気で投げつける技では進歩しているかも知れぬ。しかし先師の場合は座敷の稽古であって道場ではないからころがす程度で、あまり派手に見えなかったということもある。
★警察の講習は逮捕術 大東流の講習ではない。!!!




   ◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆  高橋 賢

 突然、吉田師範は佐川先生を訪れて、「某流のBが、大東流の影響を受けたことを隠し、独自に一流を打ち立てたと言っています。武田先生を侮っているのでどうか懲らしめて下さらないか」と懇願してきた。この侮辱は捨て置けないものと判断された先生は早速某流の道場を訪れみると、すでにもぬけの殻だった。
 まもなくして、B師の師匠である松田敏美師範が慌てて先生を訪ね、「Bは私の弟子です。この度の御無礼はお詫びしますので、どうか御勘弁ください。」と、半謝りにあやまったという。

 松田師範が武田先師から講習を受けた時は、助教を務めたのは、やはり佐川先生であった。先生に両手をつかまえて同師範が合気揚げをしようとしても、先生の体勢は一向に崩れない。終いに、逆に払い腰を喰らい何度も投げられる羽目になった。
 松田師範はこの腰技に驚き「合気も凄いが、柔道も高段者の達人に違いない。」と驚嘆したのである。しかし松田師範が柔道の腰技と思い込んで居たのは、佐川先生が合気の理論に基づいて編み出した「合気腰技」であった。
 こんな経緯があり、同師範は先生の技量を早くから熟知していたのである。弟子のためにわざわざ北海道から東京まで飛んで謝罪に来た松田師範を目の前にした先生は、先師侮辱の一件を不問に付したのである。

佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

39.11.15
 八光流の奥田は松田の弟子で、武田先師に九日間習った。この帳面は佐川師が宗家を返したときに武田先生の長男に返した。

 八光流は大東流を盗んでいるというので吉田が訴訟問題にしようとしたことがある。昭和十七年に八光流はけしからんから一緒に行ってくれと吉田に頼まれ、数日間家に行ったがいつも逃げて会えなかった
吉田も一人で行けなかった位で大したことはない。現在八十才くらい。 
★道場!!! 家は留守であった!! それだけ!! なぜ謝罪する??
 わざわざ北海道から東京まで飛んで謝罪に来た松田師範???



  ◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆  高橋 賢

 松田師範が武田先師から講習を受けた時は、助教を務めたのは、やはり佐川先生であった。
佐川先生が個人講習の助教!!!

  惣角先生の講習                     吉丸慶雪

 惣角先生の講習には三種があった。
1.警察・憲兵隊の講習 内容は逮捕術 助教なし。 
惣角先生の講習は一人で助教はない。ただし青森から東京まで時宗先生と佐川幸義先生をお供として各地を巡り講習の旅を続けたが、時宗先生の徴兵検査のため浦和まできた中止になった。勿論その時は二人とも助教である。

「先師と武田宗三郎氏、師の三人が青森を振り出しに警察・憲兵隊を教えて来られたとき(宗三郎氏の徴兵検査のため浦和で打ち切られた)先ず奥の手を最初に使われた。そして宿に帰ると「あの技の足はここまで踏む」と一言言われるだけであったそうである。-吉丸記」

2.普通の大東流の講習  助教あり
 世話人により講習会が開催された。内容は一ヶ条なみ三ヶ条。
「吉田はあまり金が無かったので、講習会を作ってはそれについていって習った。勿論その時には吉田も十円払わなければならなかった。-吉丸記」
 吉田幸太郎先生は講習会を作っていて、植芝盛平先生を勧誘した。
 佐川幸義先生は講習の世話人は出来なかったが助教を務めた

3.個人講習 助教などない。
四ヶ条からは個人講習。助教はない!!
 佐川道場も4元からは佐川先生が二度掛けるだけ、ただしある程度の説明はある。「武田先生の教え方は一日に十五手くらい、打ってこさせてはこれはこうする、こちらかに来ればこうすると、二度づつ掛けるだけで説明などしたことは無い。
そこで今教えている技の理も、わしがこうであろうと考えたものである。佐川先生」

 奥山先生は武田惣角先生に9日間習った。この講習は惣角先生の家であった。このとき助教はなく惣角先生と奥山先生と二人切りであり、時宗先生も立ち会いも出来なかった。奥山先生が部屋から出ると時宗先生が「どうですか」と聞くと、奥山先生は「痛いだけでなにも分かりません」と答えた。
これは時宗先生が佐川先生に言った話である。(吉丸慶雪)
★惣角先生の個人講習は時宗先生も立ち会いはできない!!!
★ということで松田先生の受けた講習は個人講習ではない???
★奥山先生は9日間の講習を受けた。この情報は、武田先生の「帳面」であり、佐川幸義先生が宗家を継いだ時に、初めて見たものである。たとえば

40.9.27(月)松田、小野、長田、桑原

 武田先師は西郷頼母の弟子で、竹刀と道具を持って道場を廻って歩いた。
榊原健吉の道場にも寄ったことがあり、帖面に書いてもらってある。 
 39.6.28(日)9時半 好天気
佐川師と国際大魔術団に行く。帰途国分寺で鰻重を御馳走になる。

掴みをつよくしなければならない。技と極めの力は違う。つまり受けの態勢は変化自在の柔らかなものであって、攻めは一瞬に集力する。

武田先師は保科の門弟で、現に保科門弟武田惣角と自筆の帖面を所有している。佐川師(95年注:この当時この事実は全く知られていない)




  ◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆ 高橋 賢

 戦後、大東流の基本技と合気投げの技法を中心におしえる合気道を創始した。
 植芝盛平師範は、吉田師範の務めで武田先師に入門した。戦前、吉田師範が植芝師範の道場を務ねた時のことである。当時、植芝門下にはCという力自慢がいた。Cを指導しようと、吉田師範は両手首をつかませてものの、Cの手はどうしても上げることができない。
★湯川先生は後で、

42.1.6(金)午後5時45分 恒例の新年御挨拶 田口、井上定、若林 

 遠軽の久田旅館で講習会を開いていた武田惣角先生についていた吉田幸太郎(植芝と同年)が植芝にすすめて講習に加えた。植芝が稽古着を着る時に肩を怒らせて生意気な態度であったので先生は三元(三ヶ条)で締め上げた。先生によると植芝は「ガンのような涙を出して」抑えられたということである。 
  昭和の初年、武田先生が合気の記念碑を建てると言って寄付をつのったことがあった。(結局建たなかった)佐川先生は一千円寄付し、他には北海道の網元某氏が千円か二千円、これが筆頭であとは二三百円から百円が殆どだった。この時植芝にも連絡があったが、植芝の娘から父は病気であまりやっていないからと断りの返事があって武田先生は怒り、破門するというようなことを言った。その後吉田幸太郎が若松町の道場に植芝を訪ねたとき、門前で掃除をしていた弟子は居ると言ったのに、玄関で名詞を出すと細君が丁度留守ですと言って上にも上げず帰した。吉田は先のことで先生との間をとりなそうとして行ったのであったため大変怒り、以後植芝の悪口をひどく言っている。
★函館の網元浜野甚五郎は惣角先生を3年間個人指導を受けた。寄付2千円。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

41.2.10
 植芝が習ったのは大正四年で、吉田幸太郎と同じ歳だから数えで三十三歳だった。父が習ったのが大正二年だった。

42.1.6(金)
 吉田幸太郎が若松町の道場に植芝を訪ねたとき、玄関で名詞を出すと細君が丁度留守ですと言って上にも上げず帰した。大変怒り、以後植芝の悪口をひどく言っている。
これは昭和初年


 植芝師範を訪ねた佐川先生は、得意気な植芝師範からたまたまこの話を耳にして、「これはいかん、このまま放っておいては大東流の名誉にかかわる」と懸念した。
 そこで先生は、道場にいたCを両手をつかませた。怪力で知られたCは満身の力を込めて先生の手を押さえようとするももの、先生は涼しい顔をしながら合気揚げで簡単に崩して、投げてしまった。

 力尽きCは「もの凄い力ですね」と溜め息をついた。 (高橋 賢)
★これは道場破り??? !!! これはありえない。!!

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

39.11.15
 昭和二十七年頃植芝を訪ねた時
、さすがに上げてご馳走してくれたが、その時でもわしのこの小指位の大きさで、丁度小川君(宏、手が小さい)の様な手をしていたが、あれでは掴み手など出来るものではないわしの父は植芝の先輩になるが、いつも植芝の大法螺吹きが法螺を吹き当てた、と言っていた。

 遠軽の植芝の土地は小さなものだったが家と小屋があった。それを武田先生は植芝がくれたものだと言っていた。植芝を訪ねた時、植芝に言わせると、植芝が父の病気で内地に帰るとき、印と委任状を置いてゆけと先生に言われ、そのまま取られてしまったのだと言っていた。

42.1.6(金) 午後5時45分 恒例の新年御挨拶 田口、井上定、若林
 植芝の指は細く短く女の手のようで、あれでは合気は出来ぬ。先師は五尺に足らぬ背丈でありながら小指でも私の薬指くらい太く、小手は非常に太く発達していた。

48.11.6
 吉田幸太郎はオッチョコチョイ
、植芝の道場に行った時、弟子の湯川というのに手を持たせて動けなかった。後で植芝が話していた
★植芝先生は「吉田幸太郎のオッチョコチョイ」と言っただけ

◆先生の実力を畏敬する大東流の師範たち◆ 高橋 賢

 後に、幸道会を開いた堀川幸道師範は、主として武田先師の弟子であった実父・堀川泰宗師範から大東流を習っていたが、一ヶ条などの基本技から構成されている大東流の技法体系をよく知らず、常々疑問に思ってい
 近くに寄った佐川先生が、、、
 、、、さらに先生は、つかんだ手を離さずに前後左右に続けざまに投げ倒すと、堀川師範は実力の差にがっくりとうなだれた。真剣に大東流の技法体系に学びたいと思った同師範は、その場で先生に入門を願い出た。
 この真摯に態度に、入門を許した先生は、堀川師範が知らなかった一ヶ条、四方投げなどの大東流の基本疑と、凶器捕りの初歩の疑を伝受し、同師範は門人とし英名録に自ら署名した。 
英名録サインは入門か???

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

40.3.21(日)小野、細谷、小川宏

 その頃まで師は、先師の弟子すべてを技で抑え付けて真の大東流を教え、統一しようという気持ちがあったらしいが、武田時宗氏が和をもって統合し、自分で宗家をやりたいという意向であったので、以来師はその様な者には真の技は伝えぬと決心したらしい。
 北海道の堀川という先師の直弟子でも四方投後変更しか知らず、佐川師に是非習いたいと言っているのに、先師の弟子に教えるのは僭越だと言う様なことをいうので教える気持ちがなくなった。
★たしかに堀川先生は「御教授を受けました」と英名録にサインをしているが、このサインが門人としてのものかは微妙である。

 たしかに武田惣角先生の講習は、警察の講習でも、全員「何年何月何日から何月何日まで、××回、○○において、××××を御教授を受けました。」を英名録にサインする。佐川先生が惣角先生の助教を務めるときも、佐川先生の英名録にサインするのか習慣であった。しかし英名録のサインと、門人としての入門は違うと思うが?

 私は昭和36年に入門願い、二元の講習には英名録にサインが慣例であった。
 たとえば「昭和27年、警察大学校に指導に行ったとき、30人くらい稽古を付けた」とき全員にサインをしている。しかし×籐一三十段はサインを断った。佐川先生は、×籐十段に英名録のサインを勘弁させたと言っていた。-吉丸記」
 門人3万人は講習の数か?? 3万人分の英名録があるのか、不審である。
 古流柔術でも神前でおいて師と入門者の誓いをするし、中国武術では拝師するには極めて狭い門であるが、著名な武道史研究家である高橋先生に教えてもらいたい。

 しかし「一度でも習うと門人である」というのは武田惣角先生の強烈な個性によるもので、これは特殊の特例ではないか。




   ◆大東流宗家に推戴される◆ 高橋 賢

 この機会に訂正しておきたいことがある。ある本によると、佐川先生が時宗師範のことを「時宗」と呼び捨てにしていたように記されているが、これはおかしい
まず、先生は時宗師範のことを幼名の「宗三郎さん」と呼び、「時宗さんと呼ぶことはほとんどなかった。
 なぜなら、門人に対しても先生は呼び捨てにすることなく、必ず「○○君」と呼んでいた。中には「○○さん」と付けで呼ばれるいたが門人もいる。
 また同書によると、佐川先生は御自分のことを「わし」と呼んでいたとのことであるが、これも事実に反す
★『合気道の奥義』吉丸慶雪著のこと

  佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

40.3.21(日)小野、細谷、小川宏
 武田時宗は、植芝を始め全国の武田惣角先生の弟子を訪ねたとき、「惣角先生と同じ様に手を開いているのは佐川先生と私のただ二人だけだった」と言っていた。その時わしはなぜ山吹の花のように開くか、その原理は合気の極意であるからたとえ先生の息子であろうとも教えられぬと断った。

40.7.20(木)第二元講習第十回
 武田先生は自分の息子にも教えなかった。時宗は北海道で材木の切り出しをやっていたので力は強かった。講習には連れていったが、講習は夜なので昼間練習するのだが、時宗は力一杯掛かってゆき投げつけられ、技は覚えられなかった。先生もそのような態度の者には教えることをしなかった。

40.8.23(月)長田  8-9時 お話を伺う。
 大東流二千八百八十四手とは武田先生が常々言っていたからたいていの人が知っている。しかし私が数えたのは三千くらいあり、まだまだ無限と言える。これは合気があるからである。

 一日に二十手も出されると殆ど覚えることが出来ないものである。私は子供の時からやっていたので覚える事が出来た。それも父と一緒に研究したからで、一人だったら合気は判らなかったかもしれない。二十二才のころ両手捕りを合気で投げることが出来たが、今から考えると不十分なもので、掛かる者と掛からない者があった。力を抜くということが判らなかった為だ。

40.10.31(日)
  十時鯉釣りに行く約束で先生宅に伺うも雨のため中止、お話を伺う。

 「出る」ということを基本として考えてゆけばよい。わしの幼少の頃、武田先生が大人達に話すのを聞いて分かった。しかしそれも説明は詳しいものではなく「勝負三本、、出る」という程度の話であった。

41.2.17(木) 高杉、長田、小野
 武田惣角先生には講習講習で習っているので通算すれば四年間くらいしか習っていない。習おうとするのでなく自分で考え出すのでなければ身に付かぬ。武田惣角先生は今の私と違い手数は多く見せたが一度示すだけなのでほとんどの人は覚えていない函館の浜野甚五郎という網元は三年間家に留めて個人稽古を受けたがほとんど覚えていなかった。
 わし(当時三十二、三才)が来たより柔道道場を巡り歩いた時、最初仙台駅前の佐藤という福島工専の柔道教師の小さい道場に行った。先ずわしが出て五段の男を投げ、次に宗三郎に四ヶ条の掴み手で投げよと教えてやらせた。それが宗三郎の最初の他流試合だと思う。

42.1.6(金) 午後5時45分恒例の新年御挨拶  田口、井上定、若林
   先生は全く変わった方で、大阪の東京日々新聞社に講習に行ったときは、耳の遠いこともあって新聞社の人が付き添いのわしに「あの先生は気が狂っているのでないですか」と聞いたものだ。

42.1.6 恒例の新年御挨拶
 父は自宅に十八条の道場を作り、武田先生を家族ごと招いて教わった。

武田先生は借金をして家を捨て全国を放浪され五十才(六十才?)の時に十八才位の奥さんを貰った。佐川家に居たのは五十五才位の時で子供が二人居た。その一人が宗三郎で今北海道で合気をやっている。

 父が会ったのが五十才。当時は朝風呂を湧かして先生を入れ、後先生の許可があるまで誰も入れなかった。ここで男子(武宗)が生まれたが後に死亡した。

 三男の時宗にすれ違い様短刀で腕に切り付け肩に傷を負わしたことがある。

67.1.6
 わしの言うとおりに技を使っていればその意味も解ってくる。たとえば巻き捕りで片手より諸手の方が初心者でも掛かりやすい。これは敵の上の手を横から肘で上げ崩しているから効くのであって、この点がポイントである。

43.9.6
 変更の鍛錬
 足が重い。練習不足である。わしなど数万回、数十万回やった結果体ができ、今でも毎日数千回の練習を絶やさぬ位である。これを鍛えず上達は不可能である。

 力が要らなくなるのは技が枯れきってからである。わしでも若い頃は力まかせに掛けたもので、弟子は稽古を恐れていたものだ。やはり力を入れるべきところでは充分に入れて掛けねばならぬ。

46.5.10
 敵を崩すこと。

 崩していなければ、わしでも敵を抑えることはできない。

46.7.17
 わしも
初めは力で掛けていた。初めから上手であるわけがない。その時々になぜ掛からぬか研究して段々に巧くなったものである。

46.7.23
わしが体を作ったのは腕立てによってである。十代の頃から一日千五百回を鍛錬した。それによって体が一本になることが可能になった。腕立てに限らず一つの運動を少なくとも三年は続けることが重要である。たとえば素振り。

46.8.6
 先師は非常に徹底する方で、わしの家に居たときカルメラ焼きの道具を手に入れると一晩中作り続けて、次の日の朝プッときれいに出来るようになると、それっきり止めてしまわれた。父の一つ話であった。

 わしが先生を訪ねたとき、道場の練習を見ながら桑の白木の盆を茶殻で磨いていたが、そのまま二晩三日磨き続けて、きれいに光り出すとそこで止めて、二度と手に取ろうとしなかった。
 このように徹底することが大事。

46.8.8
 
わしが片手打ちで武田先生の真似ができないと言っているのは、裏を返せばその他の技では自信がある、ということである。師と同じ技が出来なくてもそれに変わる得意技を身につけていなければならない。同じことが出来るものではない。個々の技もみな自分で自分のものにするのである。(担技は惣角先生が得意)

43.6.4(火)
惣角先師は小野派一刀流の出で、十八歳ころより諸国を廻り修行したので各流に通じておられた。私は九才の頃東京三越より取り寄せた黒胴の防具を付け武田先生に手解きを受けた。このとき武田先生の防具も一緒にお揃いで取り寄せた。当時覚えた直新陰流の極意剣は大変良いものであった。また佐々木巖流の燕返しも当時聞いているがその心技は定かではない。




  ◆大東流宗家に推戴される◆ 高橋 賢

 昭和11年、先生は、先師の東北から関東への「講習行脚」に同行いた。ある講習会にて、受講者の一人が先師の手を故意に離れてしまうために合気の技が効かないことがあった。
 バカにされた武田先師は講習が終わると、佐川先生に「幸義さん、恥かかれた、仇とってくれろ!」と悔しそう話した
 その翌日の講習で先生は問題の受講者にここぞとばかりに技を掛け、大東流がいかに激烈である武術であるかを身もって体験されたである。この受講者は、その途端に態度を改めて恐縮したという。

 佐川幸義先生聞き書き 吉丸慶雪

41.2.10(木) 高杉、長田、小野

 敵が手を外すと合気で攻めることは出来ないのでこちらから掴んでゆかねばならない。川口の警察(先生の言葉のママ)に武田先生と講習に行ったとき、柔道五段(六段?)の男が武田先生が七十何歳の老人なので馬鹿にして手を離した。その夜、先生が「ユキヨシ明日お前がカタキを取れ」と言うので、翌日わしが両手を掴んで散々投げてやった
 46.8.25
 武田先生が合気で倒すのは初心者だけだった。大宮警察(先生の言葉のママ)で一人両手で掴んで後ずさりして掛からないことがあった。その夜「ユキヨシ敵をとれ」と言われ、次の日にわしが出て投げつけたことがある。
カタキを取れ! 惣角先生らしい!!!
★前の佐門会会長井上定男先生 高校の校長で年輩なので井上さん(吉丸のため失脚?)
 今の佐門会会長の内野さんは国分寺の有力者(社長)なので入門したときから内野さん
 普通の門人は○○君 田口君、吉丸君、小原君、相沢君
 体育系の指導者や先輩は後輩に呼び捨て、が常識。


  指導者の心得 佐川幸義先生
 「吉丸君、先生になっときは、その人は「君」、その人は「さん」と分かるのは良くないよ。「君」なら全部「君」としなければいけない。しかし出来なければ全部「さん」にしたようが良いよ。」と言われていた。
★が、私(吉丸)は出来ない!! 指導者失格!!



  ◆合気開眼◆ 高橋 賢

オヤジがいなければ、合気は分からなかったかも知れないな」と先生がつぶやくように語った様子が今も忘れられない。
先生がオヤジ!!!



   ◆衣服をつかんだだけで飛ばされる体之合気◆ 高橋賢

昭和50年、先生73歳の記念撮影この2年後に体之合気が完成された

  この写真は大東合気武術協会の道場に掲げるために撮影したものである。これは堀辺正史先生がお金を出し、国分寺の写真館で撮影したものである。昭和51年12月に吉丸が大東合気武術協会を勝手に解散した。(吉丸)
★堀辺先生がお金を払い大東合気武術協会の道場に掲げるために撮影した写真!!




 ◆身長180センチを超す巨漢を赤子の手をひねるように投げる◆ 高橋 賢
小説!!!! (全てフィクション)


 写真(P.161)
昭和47年1月9日、吉丸氏の肘にまさに肘打ちをいれようとしている
佐川幸義先生
★ビクビクしていかにも先脳されていることが分かる!!!
 これは佐川幸義先生の激烈な個性を示すものではあるが!!





  ◆体之合気のモノマネ◆ 高橋 賢

その映像をじっくり見ると、いずれるなれ合いか体当たりによるニセモノであることはよく分かる
  ◆「武術に完成はない◆  高橋 賢 

 いい加減な技を″粗製乱造〟している者も出現した。

我々は逸話とか神話とかには興味はなく、「合気理論によって生まれ変わった武田先師の大東流」を知りたいと思っている。

 「体之合気のニセモノ」といっても我々にはニセモノがどうかは分からない。 
 だから高橋先生が、佐川先生の合気の理論、技法を平易に映像により公開し、武術界の妄念を取り除くことを切にお願いするものである。


 21.11.19 終わり


 平成21年9月27日(日)
 身長177センチ、体重71~72キロ。
 これが吉丸先生の佐川道場在籍時の体格です。
 これは一昔前でも巨漢とはとても言えない数字です。
 今は身長180センチ以上なんてざらにいますし、体重80キロ以上という人も多いですね。
 当ホームページには当時の吉丸先生の写真がありますが、ご覧になれば分かる通り骨太で肩幅がありますので立派に見えますが、筋肉は引き締まっていますので太っていません。
 当時の佐川道場の他の門人の方々の多くが背が低かったり痩せていますので、比べると少し大きく見えますが、巨漢の代名詞ともいえる大相撲の力士の方々と比べればかなり小さいと言わざるおえません。
 
 高橋賢先生著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』P.157には◆先生の門下に名を連ねる他流派の大物たち◆とありますが、その方々はどうされたんでしょうね?
 某空手道の館長なんて方が本気で掴みかかったり突き蹴りいれるのを佐川先生が赤子の手をひねるように投げたと書いた方が宣伝になったんじゃないでしょうか?想像ですが、おそらく吉丸先生より体格も大きいでしょうからね。(笑)
 
 その後にくるのがP.159の◆身長180センチを超す巨漢を赤子の手をひねるように投げる◆ですから、逆を言えば、それだけ吉丸先生の存在が大きかったということでしょうか?
 でももう在籍したのは30数年前の話ですから、あんな嘘話のモデルに名前や写真を使われるいわれはありません。
 それに故佐川幸義先生が存命中ならともかく、現在の佐川道場とは無関係ですし、在籍時や離門時における佐川先生にとって不名誉な事柄については堅く口を噤んで仁義を通しているのですから、迷惑ですし心外です。
 
 だいたい吉丸先生が在籍時には、佐川先生の大東流を武術としてやろうという人は吉丸先生以外にはほとんどいなくて、健康法としてやっている人がほとんどだったそうです。
 それに世間では合気道は知っていても大東流は知らないという人が大多数であって懸命に誘ってもやろうという人がほとんどいない状態で、たまに入門者がいてもすぐ辞めてしまうような有様だったわけです。 
 まあそれで大東合気武術協会をつくって佐川先生の大東流を宣伝しようという話が出てきたわけです。

 さらにP.161の吉丸先生を受けにした示演の写真ですが、嘘の文章とともに、いかにも本当であったかのような印象を与えるようにしてありますが、実は佐川先生が和装であることから新年会における型の特別示演であることが分かります。
 当時の佐川先生は、普段、洋装であったそうです。
 ですからことさら「当時の佐川道場では、こんな光景は日常茶飯事であった。」などとと書いてあるのはあきらかな武術偽装であって、実際には普段の稽古は吉丸先生に代稽古を任せ、佐川先生は時折見本として型の示演を1~2手示すという地味な稽古が当時の佐川道場の光景だったわけです。

 高橋賢先生、嘘はいけませんよ。

 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司
 


 平成21年9月15日(火)
 実は高橋賢先生著『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』の吉丸先生に関する記述で決定的に間違っているところがあります。
 それはP.159の◆身長180センチを超す巨漢を赤子の手をひねるように投げる◆のところですが、まずこの副題が決定的に間違っています。それは吉丸先生に直に会ったことのある人なら薄々気がついているとは思うのですが・・・。
 吉丸先生が武術家らしく姿勢良く堂々としていますので、高橋賢先生の記述に「そうなのかなあ」と騙されてしまいそうになるのですが、実は吉丸先生の身長は当時177センチでした。(笑)
 老齢になられ大病を患われた現在でも吉丸先生には堂々とした武術家らしいオーラがありますから、正面に立つと大きく見えます。
 また姿勢が良いんです。
 普通、年齢を重ねると背中が丸くなってきてしまうのですが、今もピンとしておられます。
 ですから大きく見えるのですね。
 入院先のリハビリテーション病院でも、その姿勢の良さにリハビリ中に先生から「何かをおやりになっておられたのですか?」と度々尋ねられたそうです。

 しかしやはり実際には180センチもありませんでしたから、横に並んで一緒に歩くとそうでもないのです。
 私が174センチですから、並んで横に立つとあまり目線の位置が変わらないのでビックリしたくらいです。

 でもいくら一昔前でも177センチで巨漢という表現はおかしいでしょう。
 もっと大きい人は結構いたはずです。
 ことさら体格と力だけということを強調したくて巨漢という言葉を使ったのでしょうね。

 栄養状態のよくなった現在では、身長177センチくらいの人はざらにいます。
 実際、私のやっていた上げ手講習会には身長190センチ以上で体重も100キロ以上なんて人が結構来ていました。
 そのくらいの体格になると鍛えてもいますので、片手で軽い人だと振り回せてしまうのでビックリさせられます。
 
 それにあくまで佐川先生が見せるのは型の示演なんですから、『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』のP.159は◆身長177センチの当時としては体格の良い男性に受けを取らせて投げる◆が正しいことになります。(笑)

 高橋賢先生、嘘はいけませんよ。

 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司
 


   平成21年9月12日(土)
 仕方なくではありますが、どうやら吉丸先生も佐川道場離門の経緯を明らかにする決心がついたようです。
 高橋賢先生が『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』の中で、吉丸先生の離門の経緯で間違った認識を示しています。
 「木村達雄先生質問状」にありますように離門の経緯につきましては、故佐川幸義先生のご子息敬行様と木村達雄先生宛に説明済みであり、その公表についてはお任せしてありますので、当然現佐川道場の幹部の一人である高橋賢先生はご存知だと思っているのですが、知らないとはおかしな話です。
 離門当時は、離門の経緯については佐川先生と吉丸先生しか分からない話で一般の道場生には謎のままだったと思います。
 それというのも吉丸先生が当時の佐川幸義先生を庇って真実を封印してきたからです。
 真実を話せば佐川先生の名声に瑕がつくと思い、只ひたすら口を噤んできたそうです。
 佐川先生も自分が悪かったことを良く知っているので、井上さんを使いにして「戻って欲しい」と説得しているのです。
 その時、佐川先生からかなりの好条件を提示されたそうですが、吉丸先生は損得を考えずに断ったそうです。
 当時、佐川先生に非があるにもかかわらず、もし佐川先生が破門にすれば、佐川先生との心の繋がりが無くなった吉丸先生は真実を話すことに躊躇する必要が無くなる訳ですから、吉丸先生の義理に厚い性格を熟知している佐川先生としては絶対に破門には出来なかった訳なんです。

 故佐川幸義先生の気性は、「木村達雄先生質問状」での下記の記述にもよく現れています。

 
 日立中研で空手を教えていたS山君を入門させたとき、座捕り上げ手で彼が頑張ったので先生が怒ったことがあります。私も散々に怒られて彼を辞めさせたことがありました。彼は悪気の無い人だったのですが、夢中になって力を入れてしまったのです。

 1966.2.2(水) 吉丸、沓沢、奥村、S山
  S山座捕上げ手で宗範に頑張り抑えられ「習いに来ているのか、何しに来ているのか、 止めろ」と怒られる。帰り道、止めるように言い渡す。

 この件は、あまりに吉丸先生が佐川先生のことを名人だと喧伝した為に、それを信じたS山さんが本気で押さえ込みにいき頑張った為に起きた事件ですが、佐川先生が激昂されています。
 こんなに気性の荒い佐川先生が、離門の件では吉丸先生に下手に出ているのですから、何かがあると分かりそうなものです。

 吉丸先生の離門に関してはもう30年以上も前の話で、私以外には全容を話したことが無かったそうなのですが、裁判では黙秘する訳にはいきませんので仕方なく真実を語ることになります。
 そしてそれらは記録され後世に残ることになります。
 
 私(有満庄司)としては、吉丸先生はすでに30年以上も前に離門されていますし、しかも佐川先生が亡くなられた今では現佐川道場と吉丸先生は一切無関係ですから、もう義理立てする必要は無いと考えています。
 故佐川幸義先生も許してくださるでしょう。
 「合気の神様」佐川幸義先生ではなく、「人間」佐川幸義先生の部分にスポットが当たるのも「真実」の為には必要です。
 それに錬体会会員の為にも、離門の真実が明らかになるのは良いことです。

 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司
 


  平成21年9月10日(木)
 先日、平成21年9月2日に高橋賢先生並びに㈱福昌堂を東京地方裁判所に提訴いたしました。
 もちろん『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』の件でです。
 『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』が出版されてからほぼ2年経つのですが、その内容が「食品偽装」ならぬ「武術偽装」であることを早く明らかにしたいと思いながら、今回の提訴が遅くなったのは実は吉丸慶雪総師範の容態が不安定であまり良くなかったからです。
 室内では比較的元気だったのですが、足腰がすっかり弱ってしまわれた為か、特に歩行等がおぼつかなかったのです。
 しかし杖をついてではありますが、ようやく吉丸慶雪初代総師範の容態が東京地方裁判所まで出向くことができる程度まで回復しました。
 これで『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』の偽装の真実が明らかにされるでしょう。

 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司


 平成20年4月4日(金)
 
書店で作家の津本陽氏著「孤塁の名人」が単行本化されて発売されたのを見つけ買ってきました。
 読んでみると、以前「オール読物」で吉丸先生の名前のあったところは、「先輩」と置き換えられていました。
 つまり作家の津本陽氏は我々の主張を一部認められたようです。やましい所が無ければそのままにしたはずですが、津本陽氏は自分の文章を検討されて不適切であると感じたのでしょう。
 もっとも高橋賢先生からの情報が一方的な嘘ですから、本来は吉丸先生からも正確な取材をして書くべきでした。
 故佐川幸義先生を神格化するあまり、嘘を『真実』として発表するのはいかがなものでしょう。これらが全て嘘であるとわかった時には、故佐川幸義先生の名声までも失墜させる行為であります。
 『真実』は、いずれハッキリすると思います。

 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司

 平成20年3月15日(土)
 
本日で高橋賢先生の『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』が出版されてちょうど6ヶ月になります。
 私が本を読んだのが平成19年9月17日で、その翌々日には吉丸初代総師範の許可をいただいて高橋賢先生に電話を入れさせていただきました。まったく月日の経つのは早いものです。
 実は昨年末に文書にて高橋賢先生に誠実な対応をお願いしてあったのですが、残念ながらこちらの期待した答えはありませんでした。
 それでまた次の行動に移ることにします。

 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司


 平成19年12月22日(土)
 高橋賢先生は吉丸初代総師範の佐川道場時代の後輩ということもあり、今まで気長に謝罪を待っていましたが、何ら連絡等は有りませんでした。
 気の長い私もさすがにこのまま待っていても何ら進展が無いことに気がつきましたので、次の行動に移ることにします。
 高橋賢先生が『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』とタイトルに『真実』という言葉を入れながら、吉丸先生をモデルに嘘の稽古風景を小説風につづり『日常茶飯事であった。』と嘘を重ねるのは、吉丸先生及び合気錬体会の名誉を毀損し、更にはこれらが全て嘘であるとわかった時には故佐川幸義先生の名声までも失墜させる行為であります。
 なお吉丸先生は『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』において、実名の使用及び写真の掲載に一切同意しておりません。
 
 大東流合気柔術 錬体会 第二代総師範 有満庄司


04.◆巨漢の突き・蹴り瞬時につぶす◆という小説???
【『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』高橋賢先生 162-163頁】より抜粋
「◆巨漢の突き・蹴り瞬時につぶす◆ 
 吉丸氏は空手の師範だっただけに、突き・蹴りに関しては自信を持っていた。しかし、いかに突き・蹴りが速く威力があろうと、先生の前では赤子同然だった。
 空手の巻藁突きで鍛えた同氏の大きな拳が、唸りを上げて先生の顔面めがけて突き出される。たが、先生の顔に当たったと思われた刹那、先生の拳が一瞬早く同氏の顔面に突き込まれ、その瞬間には、スパッと蹴り倒されている。
 何度突いても同じことだ。突き腕を払われたり打ち落とされただけで、仰向けに投げ倒されたり、押さえられる。そうかと思えば、突き腕の手首や肘、肩、首などをいろんな方法で逆に取り、極めてしまうのだ。目にも止まらぬ拳を、先生は片手でふわりと受け止めることもある。さながら「拳のキャッチボール」のようだ。拳が先生の片手に吸い込まれたと思いきや、吉丸氏は数メートル後方に投げ飛ばされていた。
 「プロ野球では、ピッチャーが投げる140キロものスピードポールをキャッチャーはいとも簡単に受けるでしょう。それを考えれば、どんなに速い突きがかわせるものだよ」と、先生は突き技に対する対処法を解説されていた。
 これだけではない。拳が顔面に当たる瞬間に、先生は顔をわずかに平行移動し、吉丸氏の突き腕を肩にふわりと担ぎ上げてしまう。先生が肩をわずかに上げた途端、同氏は両足を刈り払われたような格好で前方に跳ね上がり、大の字に倒れるのだ。
 蹴りでも同様だ。同氏が素速く蹴り出した前蹴り、横蹴り、回し蹴りを、先生の手はほんの少し触れる程度である。蹴り足を軽く払ったと見るや、同氏はバランスを崩して倒れる。あるいは、蹴り足を払った次の瞬間には、その両腕はいつの間にか背後に極め上げられ、後方に倒される。蹴り足をすくい上げて後方に倒し、両手両足をがんじがらめにして身動きできなくすることもできる。
 当時の佐川道場では、こんな光景は日常茶飯事であった。」

 耐震強度の偽装が問題になっている。建築偽装につづき雪印牛肉偽装、日本ハム(株)の100%子会社である「日本フード」の牛肉偽装事件、さらに不二家問題、牛肉ミンチの「ミートホープ」やチョコレート菓子の「白い恋人」の偽装などに続く創業300年の老舗「赤福餅」の偽装が問題となり、さらに食肉加工・製造会社「比内鶏」は特産の「比内地鶏」を偽装した。

 では「合気」はどうか。
 松田隆智先生の『謎の拳法を求めて』で我々は初めて「発勁」ということを知った。松田隆智先生の『謎の拳法を求めて』は、その後の日本における中国武術の普及に際して多大なる影響を与えた。特に「発勁」という言葉は松田隆智先生によって広められたといっても過言ではないだろう。この中で松田隆智先生が佐川先生の「合気」を取り上げてくれたので、私も会員が増えることを期待したのであっったが、当時佐川道場に入会したのは1人だけであった。
 まだ「合気」とか佐川先生とかに関心がなかった時代であった。
 だから発勁とか合気という技術を、ある程度の虚飾をまじえ神秘的な技として取り上げることは必要であったと考える。
 しかし時代が変わり、今、発勁も合気も科学的に研究される時代になっている。
 それにもかかわらず荒唐無稽な作り話を「あたかも真実であるかのように」偽って発表するのは、いくら佐川先生を持ち上げていても、結局はウソと分かったときに「贔屓の引き倒し」になり、それによって佐川先生の実力まで疑われることになるのである。

 作り話を『佐川幸義先生伝 大東流合気の真実』とするのは偽装である。

 これは完全に小説である。
 私が生きて来た昭和36年より昭和51年の間、佐川道場において、小説のようなことは絶対に一度でも無かった! ということを断言できる。上記のような話について、これは
ウソである。これは非道い。

 なぜ本当のことを書かないのか。私が看過すれば、私までも読者を欺く同犯者になってしまう。

 先生が不世出の武術家であるということは、私の体が一番知っていることである。しかしこの作り話が
ウソであることがが分かった時、先生が不世出の武術家であるという事実までも否定することになるのを危惧するのである。
 

平成19年10月28日  つづく


高橋賢先生著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」についての経緯
◎総本部雑感記から一部転載 (一切の責は、合気錬体会総本部 有満庄司にあることを明言いたします)

高橋賢先生著「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」について、高橋賢先生への私(有満)の抗議
 
著書で『この機会に訂正しておきたいことがある。』と強調しておられたのですが、高橋賢先生に直接電話して尋ねてみると、実際には「吉丸さんがそう聞いたんでしたら、そう書けばいいじゃないですか」という程度のことで、私が拍子抜けするような話でした。本当につまらないこと、どうでもいいようなことを著書で殊更に強調して吉丸先生の信用を失墜させようとする行為に納得いきません。また本のタイトルには「真実」とあるにもかかわらず、実際には無かった稽古風景を吉丸先生をモデルに小説風に書き綴ってあるのも納得いきません。吉丸先生を都合よく宣伝に使ったとしか思えないのです。
 電話での会話には他にも「エッ」と思わざるおえないことがありましたが、それはあえて書きません。


平成19年9月19日(水)

 私は、平成17年6月1日に木村先生を仲介して、佐川幸義先生のご子息の合気司家佐川敬行様から吉丸先生を気遣うお言葉があり、また吉丸先生が離門に至った経緯を説明する資料を平成18年10月に佐川敬行様並びに木村達雄先生に送ったことによりすべての決着がついたものと考えておりました。
 しかし、最近、吉丸先生の佐川道場時代の後輩である高橋賢現師範が「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」を出版されました。
 私も勉強させていただこうと購入したのですが、読ませていただくと合気錬体会として納得のいかない内容が数ページにわたって書かれているではありませんか。
 それで私は高橋先生の「その真意と責任」を尋ねる為に直接会って直談判することに決めました。それで準備を整えた上で吉丸先生に連絡しましたところ、駄目だと言われるのです。どうも私がカッとして事件になるのを心配されているようなのです。
 以前、木村先生の件の際に筑波大学に乗り込もうと考えているのを見透かされてしまい勝手な行動をきつく禁じられてしまったことがありました。結果から言えば、木村先生と友好関係を築くことができて吉丸先生の判断の方が正しかったのですが、今回ばかりは私も簡単に引き下がるわけにはいきません。
 なぜなら木村先生の時は吉丸先生への私信であったのですが、今回は書籍として一般に販売されており反論や抗議をしなければ事実として後世に残ってしまうことになります。特に「佐川幸義先生伝 大東流合気の真実」で初めて大東流を知った方は真実だと受け取る心配があります。
 「透明な力」は主に佐川先生の言葉を木村先生が記録して出版されたもので、吉丸先生としては恩義ある先生に反論することは難しかったと思います。
 しかし高橋先生は吉丸先生の後輩であり、別に恩義があるわけでもありません。これは絶対に抗議するべきですと譲らず、冷静に交渉すること条件に電話することを許可していただきました。しかし内心では電話でこじれたらやはり直談判するつもりで決心していましたが、実際は拍子抜けするものでした。
 30分ほど話したのですが、以下はその概要です。(★  )内は私の胸の内です。

 受付の女性に取り次いでもらい高橋先生に電話に出ていただきました。
高橋先生 「高橋です。」

私(有満) 「合気錬体会の有満と申します。本の出版、おめでとうございます。佐川先生の写真が多数あり、大東流や合気道を学ぶ人にとっては勉強になります。」

高橋先生 「ありがとうございます。」

私(有満) 「ただ合気錬体会としましては納得いかない記述があり、その点をご質問させていただきたいのです。まずP.143に『この機会に訂正しておきたいことがある。ある本によると、佐川先生が時宗師範のことを「時宗」と呼び捨てにしていたように記されているが、これはおかしい。まず、先生は時宗師範のことを幼名の「宗三郎さん」と呼び、「時宗さん」と呼ぶことはほとんどなかった。』とありますが、この中のある本とは吉丸先生の著書のことですか?」

高橋先生 「そうです。」

私(有満) 「続いて『また同書によると、佐川先生は御自身のことを「わし」と呼んでいたとのことであるが、これも事実に反する。 (中略) ところが、私が記録する限りにおいて、佐川先生は、いつも「わたし」を使っていた。まれに「わし」を使う時もあったが、多くは往時や故郷を懐かしんで語る時であったように思われる。』とありますが、これらは吉丸先生を批判し、著書の信頼性を失わせる行為ではありませんか?」
 (★ つまらないことを指摘して吉丸先生の信用を失わせようとしていることが納得いかないのです。)

高橋先生 「私はそう聞いていたから、そう書いただけです。」

私(有満) 「しかし私は吉丸先生より、日記の記述は佐川先生より聞いた内容を忘れないその日のうちに佐川先生の言葉のままに書き写したものと聞いています。佐川先生は吉丸先生の前では時宗師範のことを「時宗」と言い、唯一、近藤氏を伴って来訪された時は本人が目の前でもあり「時宗さん」と言われたそうです。大人を幼名の「宗三郎さん」と呼ぶ方が無理がありませんか。」
 (★ この時、そういえば「透明な力」にも「時宗」または「時宗さん」と書いてあったな、と思い出したのですが、このときは自信がなく言い出せずに帰宅してから確認したところ、「透明な力」P.114に時宗さんと書いてありました。そのほかの箇所にも普通に書いてありますね。)

高橋先生 「・・・・・・・・・・・・、吉丸さんがそう聞いたんでしたら、そう書けばいいじゃないですか」

私(有満) 「エッ、高橋先生は『この機会に訂正しておきたいことがある。』と強く書かれて、いかにも吉丸先生が間違っていると批判されているじゃないですか。」

高橋先生 「・・・・・・・・・、私は佐川先生から聞いていたことを書いただけです。」
 (★ 高橋先生、自分が書いたことに信念を持ってください。その程度でしたら、本に書く必要はないでしょう。)

私(有満) 「では、佐川先生は御自身のことを「わたし」と呼んでいて「わし」とは使っていなかったという点ですが、私が吉丸先生から聞いた話では家族や吉丸先生の前では普通に「わし」「わし」と言われていたそうですが?」

高橋先生 「私は聞いたことがないね。」「・・・・・・・・・、ただ佐川先生の「た」と言うのは小さかったから「わし」と聞こえた人もいるかもしれないね。

私(有満) 「エッ?・・・・」絶句!
 (★ では佐川先生は、自分のことを「わし」と言われていたということですか?あまりの発言にこれを聞いた途端、私はあきれ返ってしまい自分の体から怒りがシュルシュルとしぼんで、冷めてしまいました。そして頭の中で「わし」「わし」「わし」という言葉が駆け巡るのです。)

私(有満) 「ではP.163の件ですが、離門の経緯はホームページに書いてあるのですが・・・」

高橋先生 「見たことあります。」
 (★じゃ、木村先生との件で、離門の経緯を知っていて、ワザと本には中傷するような事を書いたわけですね。)

私(有満) 「では吉丸先生が佐川先生に手紙を書いたとき、佐川先生は受け入れるつもりでしたが、古い門人が吉丸先生が佐川先生に会うのに猛反対をして、佐川先生も結局断念されました。という話があるのですが、その古い門人と言うのは高橋先生ですか?」

高橋先生 「私じゃないよ。私は内野さんと一緒に佐川先生から「こんな手紙を持ってくるな」と怒られただけだよ。」

私(有満) 「エッ、じゃ木村先生が嘘をついているということですか?」

高橋先生 「木村さんはそう聞いたんでしょう。佐川先生も人によって言うことを変えていたのかもしれない。とにかく私は佐川先生から聞いたことを書いただけですから。」

私(有満) 「エッ、それなら佐川先生から聞いたと言えば、何でも書けてしまうじゃないですか?」
 (★ あまりにも無責任じゃないですか)

高橋先生 「・・・・・・・・・・・・」

私(有満) 「では、その前のページにいかにも吉丸先生が佐川先生に組手で挑んだようなことが書かれていますが?」

高橋先生 「組手?組手なんてどこにも書いてないよ。」

私(有満) 「その前のページです。大東流の稽古は型稽古ですから、「顔を突いて来い」とか「右手を掴んでみろ」とかいったことはやりますけど、・・・」

高橋先生 「当たり前じゃない、大東流は佐川道場だけじゃなく、どこでもそうだよ。あなたのところでも吉丸さんが教える時はそうでしょ?」

私(有満) 「・・・・・・・、でもこれじゃ、まるで小説ですよ。吉丸先生が佐川先生に本気で挑むわけないじゃないですか。佐川先生が名人だったというのには同意しますけど。」

高橋先生 「とにかく私は佐川先生から聞いたことを書いただけです。」

私(有満) 「ではうちがホームページで反論しても良いということですね。」

高橋先生 「いいですよ。」

私(有満) 「ではまた質問がありましたら、お電話させていただきます。」
(終了)

 メモをとりながらのやり取りでしたから、大体、正確に再現できたと思います。
 高橋先生、許可を頂いたので再現させていただきました。ホームページを御覧頂いておられるそうですので、もし反論等がありましたらメールaiki-rentai@777.nifty.jpか電話03-3378-6926で御連絡下さい。もし留守でしたら伝言を残していただければ、翌日にこちらからご連絡いたします。
 よろしくお願い致します。       合気錬体会総本部 有満庄司
 


03.「これも事実に反する。」                           
 「また同書によると、佐川先生は御自分のことを「わし」と呼んでいたとのことであるが、これも事実に反する。」高橋賢     

 
「これも事実に反する。」といわれても、たまたま『合気道の奥義』では私の日記を出したもので、人に見せるための「日記」ではないのであるから、「事実に反する」と言われても困るのである。                            
 多分、津本陽先生が記者を伴って佐川道場に来た以後、先生は「私」に統一していると考えるのが自然である。先生は兵法家なので、「私」は計算済みである。


昭和39.11.15 【三元講習 第九回】田口 吉丸 
 大東流の中でもどうして崩れるのか合気の理が判っていて技を掛けている者は居ない。理は判るものではない。技は人間の骨格、力学から割り出した理に合ったものである。合気は必ず理で説明出来るものでなければならない。神秘的なものなど無い。

 鍛えれば必ずそれが形になって現れるものだ。
わしの手など鍛えてこの様になったものだ。

 昭和二十七年頃
×芝を訪ねた時、さすがに上げてご馳走してくれたが、その時でもわしのこの小指位の親指で、丁度小川君(宏、手が小さい)の様な手をしていたが、あれでは掴み手など出来るものではない。わしの父は×芝の先輩になるが、いつも×芝の大×螺吹きが×螺を吹き当てた、と言っていた。

 遠軽の×芝の土地は小さなものだったが家と小屋があった。それを
武田先生は×芝がくれたものだと言っていた。×芝を訪ねた時、×芝に言わせると、×芝が父の病気で内地に帰るとき、印と委任状を置いてゆけと先生に言われ、そのまま取られてしまったのだと言っていた。

 『透明の力』P.112には次のように書いてある。
 それは新宿の若松町の、、、、、植芝としゃべった。そして合気上げやってくれと言った。植芝は最初いやがったがしつこく言って手をつかんだ。、、、、、、動くことができなかった。、、、、、そのあと天丼をごちそうになった。

 
昭和41年6月15日(水)小野、長田、沓沢、千葉
1.
武田時宗は宗三郎と呼ばれていた。惣角先生と時宗(当時二十一、二才)わし(当時三十二、三才)が北より柔道道場を巡り歩いたとき、最初仙台駅前の佐藤という福島工専の柔道教師の小さい道場に行った。まずわしが出て五段の男を投げ、次に宗三郎に四か条の掴み手で投げよと教えてやらせた。それが宗三郎の最初の他流仕合だと思う。

1.佐川先生がクッチャンで高橋という柔道六段を投げたのを先日十数年ぶりで上京した氏が当時を想い語っていったそうである。氏は以前室蘭製鉄所で柔道を教えていたとき柔術家という者と二三度仕合をしたが話にならなかったそうで、その後クッチャンに帰り道場を開くため寄付をつのった。当時時計屋の富木という人が佐川先生に勝てば千円寄付するからと進めて仕合をさせた。佐川先生は三十数度続け様に叩きつけたそうである。

昭和41年4月14日(木) 松田昌幸
 人間的にはおとなしいのもよいが、武術では困る。技が優れていても勝負になると結局どこかでごまかされてしまう。師の技を盗むくらいの気構えでなければ覚えられるものではない。教わろうとしている間はものにならない。
(人間的にはおとなしいのもよいが、、、、というのは、吉丸について注意している。)

 武田惣角先生は手を取らせることは絶対にしなかった。それで
わしも武田先生の前ではこちらから掛けるだけの教え方をした。武田先生は「武士が手をとらせることがあるか」と言われていた。

 武田先生の教え方は一日に十五手くらい、打ってこさせてはこれはこうする、こちらかに来ればこうすると、二度づつ掛けるだけで説明などしたことは無い。そこで今教えている技の理も、
わしがこうであろうと考えたものである。

 若い頃、両肘に弟子を乗せて鍛えたりしたが、後で考えると肘の強さが問題ではないことが判った。

昭和42年1月11日 (水)長田、高杉、古川、千葉
1.合気の練習に留意しなければ上達しない。特に引く合気が重要である。しっかり持たせて合気で崩す。速くするのは勝負のときは結構だが、イツも速くやっていては合気を覚えることはできない。

1.
わしがやれば出ても引いてもどう動いても掛かるが、それを真似て迷っていては結局分からなくなってしまう。引く合気で足を踏み出しているがこれは足を引くと教えているのであるから、効かなくてもその様にやっている内に分かってくるものである。それでなければそれだけやっても結局分からなくなってしまう。

1.力を入れ技に段があるが力のある者に掛かってはその段のところで立ち直られて技が効かない。また身体が大きいのであるから力で抑えつけたように見えて感心させることが出来ないので、特に力を入れないで倒すようにしなければならない。
(吉丸について注意している。)

 
わしの言うとおりに技を使っていればその意味も解ってくる。たとえば巻き捕りで片手より諸手の方が初心者でも掛かりやすい。これは敵の上の手を横から肘で上げ崩しているから効くのであって、この点がポイントである。
 こういうようによく考えてみればどこが技のポイントか考えつくことが出来るものである。言われた通りに行うこと。

昭和45年1月9日  年頭のご挨拶に伺う。 田口、井上、若林
1.
わしは幼少のころ非常に身体が弱く、四歳(満三歳)のときに肋膜になり、札幌に船で三日三晩かかって行った。都庁留萌に停泊したらしく、そのときの沢庵の匂い、丸い弁当箱など今でもまざまざと覚えている。

1.武田先生は柳津温泉に昭和十六年に行き、あまり温泉に浸かりすぎたために中気で倒れ、
わしに直ぐ来いと電報が来た。
そのとき会津の長男と時宗が来た。静は最初から付き添いで来ていた。
 寝ている武田先生は人が来れば宿屋の主人であっても誰でも手を掴め手を掴めと言うので、上からのしかかる様に持つと体が浮き上がってしまう。
先生はこれでせめて上げ手のコツだけでも伝えようとされたのではないか。
 しかし
他の人は結局判らず、わしはなぜ上がるのか熱心に考え、遂に会得した。

『透明の力』P.41には次のように書いてある。
 佐川は十七歳ですでに合気の原理が分かっていたから、どうやっているか理解できたが、、、、、、、結局何もわからなかった。

1.武田惣角先生がうちの道場に来られたのは先生が五十五才父が五十才の時で、そこで武田先生は遠縁に当たる札幌女学校を出た十八才の娘と結婚し、長男がそこで生まれた。しかしこの子は引きつけを起こし、田舎の医者では何もできずここで亡くなった。

1.昔の人はあぐらなどかかなかった。
わしの父もあぐらをかいているのは一度も見たことがなかった。武田先生もあぐらを書かれたのは一度も見たことがない。あぐらは横から膝を上げて喉を抑えれば簡単にひっくり返る。また横に押してもすぐ倒れる。

昭和46年1月10日(日) 道場開き 二十名  
1.師九才の頃の剣の師は小野派一刀流の佐々木亮吉である。
 そのころ神社の奉納仕合があり佐々木先生が優勝した。仕合終了後佐川家の道場で惣角先生が「ニシャ小野派一刀流だな」「はい」「小野派一刀流は良いが引き小手は悪いから止めれ」と言われ、佐々木先生が「いや私の引き小手はなかなか打たれたことが無いから」と言うのに「では立て」と籠手を付けさせて
対面するなり変更の足で竹刀を左片手で打ち込んだ。佐々木先生は青くなり「参りました」と言って坐ってしまったが、その内小手に十円銅貨くらいの青あざが付いていた。

『透明の力』P.13には次のように書いてある。
 その途端に武田の顔色が変わり「ではコテだけつけてみろ」とコテだけをつけさせた。有無を言わさぬ迫力で、そして立ち合ったがあっといる間に連続してビシビシ打ってはめ板に追い込んでしまった。、、、、、、何度も打ち込まれ全く防ぐことができなかった。


 惣角先生の剣は青眼に対しても太刀の横から切るのではなく真っ直ぐ太刀の上から来る。内小手も防具の当たって無い所を打ったのであって手首で効かせている。

 宗範も一寸真似の出来ない技であるとおっしゃられた。
 片手では人は切れないなどという者が居るが、鍛練者は片手で充分である。

1.新橋で乱闘したのは大正十一年のことである。
 
わしが酔って友人に寄りかかって歩いていると、金春館の横でブルドッグを連れて歩いていた車夫がぶっつかって来た。その車夫が掛かってきたので倒すと「待っていろ」と言って逃げた。それをそのまま待っていると車夫が三十人くらいやってきて、最初のが柳刃を手ぬぐいで巻いたもので付いてきたが、素人なので突くのも遅く、受けてもぎとり倒した。そのときこれを持っていると人を殺すということがハッと頭に浮かび、とっさに投げ捨てた。あとは突きと蹴りで七八人倒すと皆逃げていった。友人は最初から逃げてしまっていた。  

1.昭和三十一年に
武田時宗に宗家をゆずった。そのとき念書を取ってある。

昭和46年5月10日
1.敵を崩すこと。
 崩していなければ、
わしでも敵を抑えることはできない。

昭和46年5月12日
1.
私は頑張られるとカッとしてどこまでも掛けるという性質で、若い頃は失敗することもあったが、失敗した時は悔しくて夜も寝ずに考えた。その積み重ねで合気が出来るようになった。習って上達しようというような考えでは使えるようにならない。出来るか出来ないかは習う人による。
 上達するのはその人である。この方法でやれば精神力が強くなるとか、気が強くなるとか、方法に頼っても駄目ですべて自分でやるのである。自分でそうするのである。

1.精神力が最も重要である。初めての者を相手にする時は手の内が分からないので、どのような弱そうな者に対しても真剣にやらなければならぬ。
わしの場合どのような者を相手にしても、掛けるときは常に真剣である。

1.武田惣角先生はどのような者を相手にしても全力で技を使われ、
わしもそれを学んだのである。相手をあしらおうという考えでは掛けることはできない。最後まで抑えるという気迫が必要である。

昭和46年5月14日 
1.武術では相手を恐れさせておくことが必要である。武田先生は稽古の時も平常も相手をにらみつけるようにしていて、その周囲には殺気というようなものがただよっていた。あのような雰囲気を持った人はやはり名人である。
弟子は恐ろしくて力を入れようと考えることもなかった。
 
わしも人の稽古をしてやるようなことはしたことがない。皆自分が上達するための方法をやってきた。

平成19年10月21日  つづく


02.先生の呼び方について
 「さらには、門人に対しても先生は呼び捨てにすることはなく、必ず「○○君」と呼んでいた。中には「○○さん」付けで呼ばれた門人もいる。」高橋賢
    
 実は私は、【指導者の心得】について、佐川幸義先生にコンコンと教えてもらったものである。
 「吉丸君、先生になるときは威厳を保つことが大事だよ。そのためには、『君』なら全部『君』で統一する、しかし君はまだ若いから、『さん』が良いと思う。『さん』なら、高校生でも中学生でも全部『さん』付けにするのが良い。」
 しかし私は、武術家として教えるつもりはなく、若いものには内田君で、少し上なら有満さんと呼んでいる。だから私は威厳がないと、当時の先生の言葉を思い出し、反省している。

 先生は兵法者なので、道場では意識的に○○君を統一したものである。それでも論外はあるもので、井上さんは高校の校長内野さんは国分寺の有力者で社長であるから、最初から井上さん内野さん、そして札幌の支部長の川人さん、というように、つまり先生でも、少し遠慮をしているのである。

 別に佐川幸義先生が人格家であるから○○君と呼んだ、というわけではなく、泉川寛喜先生、佐藤金兵衛先生、岡本正剛先生など皆「君、さん」で呼んでいる。
 まだ体育部出身の先生は、全部「呼び捨てする」のは当たり前のことである。体育部では、先輩は後輩を呼び捨て、後輩は先輩を○○さん、改めて書くのが奇妙である。 

平成19年10月8日 つづく


高橋賢先生新著作について          19.9.26

 高橋賢先生の新著【佐川幸義先生伝 大東流合気の真実】が出版されたということで目出度いことである。
 2.3名の方が私にその本を持ってきたが、私の人生が残り少なく、まだやっておきたい仕事が多々あるので、これらの本は読む時間もないと思い、皆持って帰ってもらった。
 しかしその後、有満さんが問題があると【佐川幸義先生伝 大東流合気の真実】の143頁と163頁の2枚をFAXして送ってきたので、一応そこだけ読むことにした。
  
 私としてはどうでも良いのであるが、読むと【佐川幸義先生伝】も【大東流合気の真実】も余りにも問題が多く、全部本当のことと信じて読むであろう読者にとって、これは読者への裏切りになることを憂慮する。マスコミも商売であるから、ある程度の虚構は許すことはできる。しかしあまりにも、これは神格化が行き過ぎではないか。
 神格化が行き過ぎれば、却って、先生の写真でも虚構ではないか、などという不要な憶測を生ずることを危惧するのである。  

01.「この機会に訂正しておきたいことがある。」について
 高橋賢先生は「これはおかしい」とか「これも事実に反する」と鬼の首を取るように書いているが、これでは高橋先生は佐川幸義先生の表面のことしか知らないということであり、これは意外なことであった。しかし本当のことを知っているが、読者には意図的に隠している、ということもあるかも知れない。

【佐川幸義先生伝 大東流合気の真実  143頁】
 この機会に訂正しておきたいことがある。ある本によると、佐川先生が時宗師範のことを「時宗」と呼び捨てにしたように記されているが、これはおかしい。まず、先生は時宗師範のことを幼名「宗三郎さん」と呼び、「時宗さん」と呼ぶことはほとんどなかった。

吉丸の日記より抜粋

昭和40.10.28(木)長田、小野
 
 吉田幸太郎はそれ程やっていない。というのは講習で教えたので十日間で十円取った。吉田はあまり金が無かったので、講習会を作ってはそれについていって習った。勿論その時には吉田も十円払わなければならなかった。当時吉田は四十才くらいだったが、宗三郎を背負ってオムツの洗濯など良く尽くしていた。しかしその様な講習会では決して上の手は見せず、せいぜい三ヶ条までの繰り返しであった。


昭和40.3.20(土)内藤、細谷 札幌川人氏見学
 合気の手は山吹の花のように開く。
 武田時宗先生が全国の大東流道場を尋ねて廻ったとき、惣角先生が言われていた様に手を開いていたのは佐川先生一人だけであったと、札幌で語っていた。(川人氏談)
 わしはその時、形はそうするのだが何故そうするのか判らないだろうと言い、時宗もそれを知りたがったが、それは秘密で教えられぬと断った。時宗が習ったのは惣角先生の晩年のことで、そのころ先生もコツを教えようという気にはなっていたらしい。先生は日常生活すべて真剣で、家族だからといって手加減することはなかった。
1.札幌では40人くらい会員がいるとのこと。


41.6.15(水)小野、長田、沓沢、千葉
1.武田時宗は宗三郎と呼ばれていた。惣角先生と時宗(当時二十一、二才)わし(当時三十二、三才)が北より柔道道場を巡り歩いたとき、最初仙台駅前の佐藤という福島工専の柔道教師の小さい道場に行った。まずわしが出て五段の男を投げ、次に宗三郎に四か条の掴み手で投げよと教えてやらせた。それが宗三郎の最初の他流仕合だと思う。

1.佐川先生がクッチャンで高橋という柔道六段を投げたのを先日十数年ぶりで上京した氏が当時を想い語っていったそうである。氏は以前室蘭製鉄所で柔道を教えていたとき柔術家という者と二三度仕合をしたが話にならなかったそうで、その後クッチャンに帰り道場を開くため寄付をつのった。当時時計屋の富木という人が佐川先生に勝てば千円寄付するからと進めて仕合をさせた。佐川先生は三十数度続け様に叩きつけたそうである。


昭和49年10月21日
 武田時宗先生門人近藤氏伴い来訪。当方の立ち会いは吉丸。
 大東流合気武道総本部総本部長を依嘱のため。以前の約束により総本部長は空席にしてあるとのこと。総本部長即宗範と名乗ってよい。師は断る。

【佐川幸義先生談】
 剣道が古流から精髄を集め、これについては本当に良いものは隠したのではないかとの疑問も大いにあるが、型制定の時に各先生方は匕首をのんで会議に臨んだという。大東流もそのようにすれば正しく後世に伝えることができるのではないだろうか、という私案を持っている。また各先生方の研究は独自に継承してゆけばよいのではないか。

【時宗先生談】
 浦和の警察に行ったとき、あそこは高野佐三郎の土地で皆自信を持っていた。そこに指導に行った時お前が行って来いと先に一人でやられた。20歳のときであった。詰め襟を着て童顔だったので16才くらいにしか見えず、青白かったので向こうで馬鹿にされ、お前では駄目だと言われさんざん武道の自慢話を聞かされた。そのあと四ヶ条で掴んでねじり上げたところ向こうは驚いて平伏して謝った。その次の日佐川先生が来て講習をした。
 そのとき惣角先生は柔道×段の大男を三ヶ条で掴んで、「さぁ動け」道場を一周されたが、その時あの小さい先生が実に大きく見え、佐川先生と二人で実に不思議だと話し合ったものであった。
これに対し佐川先生もあの時は本当に先生が大きく見えたものだと懐かしがっておられた。
(★吉丸注、昭和49年10月21日、大東流合気武道総本部総本部長を依嘱のために、武田時宗先生は門人の近藤先生を伴って佐川家に来訪した。会談のために吉丸は、先生の命令で記録掛りを勤めた。なおこの10年くらい前、近藤先生は大学生のとき佐川道場に来訪している。

 会談の骨子
①堀川幸道先生は總本部長を希望したが、時宗先生は北海道總本部長に止めた。
②鶴山の『合気杖道』について時宗先生は、この本は3万部出て、大東流の宣伝になるので、まあ良いではないでしょうか。弟子と言っても名だけですから。

 なおこの時、『透明の力』には次のようにある。
「鶴山晃瑞というのが『合気杖道』という本を持ってきた。」 113頁
「合気なんてそう簡単にできるものではないのだ。合気は武術ではないなんていいかげん事を書くから時宗さんと近藤昌之というのが来た時に、なぜこんないいかげんな事を書かせるのだ、あんたの弟子だろう、と言った所、弟子でもいちいち文句を言うわけはいかないしそれに大東流の名が出ているからと言っていた。」 114頁


③『合気杖道』には、宗範などという称するものが居るという文章があり、これで先生は怒っていた。
 鶴山氏は当時電電公社の労働組合の専従らしく、1日中電話は掛け放題で、だから鶴山氏は全国に電話を掛けて大東流の取材をして、その本を書いたということである。
 その本の取材で鶴山氏から佐川先生のところにも電話が何度かあり、その電話は大東流のことをしつこく聞くので、先生は「鶴山という男は1時間も2時間も電話を掛けてきて五月蠅い奴だ」と怒っていた。(本に載ると言えば、普通の先生なら喜んで話すのであるが・・・)
 そして本が出たら宗範の悪口を書いていた。なぜ先生のことを悪く書いたのかは、先生が鶴山氏に対してお世辞をしなかったため、と私は考えている。(なお現在『合気杖道』は改訂されて宗範の文章はない。)
 だから『透明の力』には「鶴山晃瑞というのが『合気杖道』という本を持ってきた。」というのは事実に反するが、先生がそう言いたい気持ちは良く分かるのである。
 なお鶴山氏は先生と会ったことはない、というのは、本が出たとき、私が詰問のためにある体育館で鶴山氏に会ったからである。小太りの体で、指の小さい人であった。
 つまり本というものは、ある程度の修飾は許されるが、【佐川幸義先生伝 大東流合気の真実】は許す範囲を越しているではないか、と考えるわけである。

平成19年9月26日 つづく